「来るべき方」  石橋秀雄牧師

 


「 来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」

(ルカによる福音書7章20節)



 マタイ福音書は、ヨハネが領主ヘロデに捕らえられて首をはねられ殺された記事を詳しく記している。ルカ福音書は、マタイ福音書を知っている。しかし、ヨハネが獄に捕らえられて殺されることを知っていながら問題にしない。
 ヨハネは獄の中から二人の弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」と問うている。
 この部分はバプテスマのヨハネの挫折、躓き、戸惑いの表れと解釈して語られることがある。
 「神の国が到来した」のだ。来るべきお方メシアが、そのお働きをされている。
 しかし、現実は変わらない。律法違反の領主がヨハネの生きる世界を支配し、この領主の罪を糾弾したヨハネは獄に捕らえられ、いつ殺されるか分からない状況にある。
 ヨハネは「来るべきお方は、あなたでしょうか」と問わずにいられないのだ。ヨハネはメシアを指し示し続けてきた。主イエスこそがメシアであるとの確信の中で「来るべきお方は、あなたでしょうか」と聞かずにはいられないのだ。
 のヨハネの問いから「来るべきお方」とはメシアを指し示す言葉となった。神の救いを実現するメシアだ。
 ナインでひとり息子が死んで嘆き悲しむ寡婦に「もう泣かなくてもよい」と言って死人の中から若者を生き返らせた話などヨハネは耳にしている。数々の主イエスの出来事を耳にしてきた。ヨハネは「主イエスが来るべきメシア」だと信じている。しかし、主イエスご自身のお言葉として「わたしが来るべきメシアである」とのお言葉を聞きたいのだ。
 ルカ福音書はヨハネの投獄を問題にしない。
 「問われるのは問うもの自身」なのだ。神の業を見ながら「来るべきお方はあなたです」「あなたはメシアです」となぜ告白できないのかと問う。
 ルカはナザレの会堂で主イエスがイザヤ書を示しながら語られたお言葉を記す。
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」のだ。この神の業を見ているのだ。しかし、告白できない。それどころか「来るべきお方」「救い主に躓く」のだ。
 「わたしにつまずかない人は幸いである」(23節)。主イエスは徹底的に弱くなり、十字架に死んでくださった。この十字架の主に躓く。神の救いの御業を見ながら躓くのだ。「死者は生き返り、貧しい人に福音が知らされている」とメシアの救いの御業が、復活の主イエスの救いが明確に示されている。
 この神の大いなる救いの業をわたしたちは見ているのだ。  


 越谷教会月報「みつばさ」2022年9月号より



画像:「オレンジ色の朝焼け」 は「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。