「 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
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(ルカによる福音書6章27節、36節) |
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と主はお語りになり、さらに「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」(29節)との有名な御言葉が語られている。
ウクライナの悲惨を毎日目にしながら、ウクライナの人々に「敵を愛しなさい」と語れるだろうか。愛する者をミサイルで無残に殺されている。この人々に、憎んではならないと言えるだろうか、とても言えない。
「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」との御言葉が続くが、このように生きる自信はない。
敵を愛するという「愛の心」で生きることは困難だ。愛の心が無力と思える現実の中に私たちは生かされている。敵意が膨らみ、憎しみが膨らみ、怒りが膨らんで、裁きあって生きる殺伐とした世界の現実を思い知らされながら今生きている。
「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。・・・わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。・・・わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。・・・神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編51編1節〜12節)
自分の力ではどうにもならない罪の内に沈んで苦しむ信仰者の切実な祈りだ。神が新しく創造してくださらなければ、罪から解放されることはない。
「罪から救い上げてください、わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」との切実な詩人の祈りを神は聞いてくださった。
「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」、この神の憐れみがわたしたちに迫る。憐れみとは苦しみや痛みを共に苦しむことを意味している。わたしたちの罪の苦しみを引き受け十字架に主イエスは命を捧げてくださった。この神の憐れみがわたしたちに迫る。罪に滅んでいくものを憐れみ「いと高き方の子となる。」(35節)と「神の子として栄光を与える」と言ってくださっている。この神の憐れみに圧倒される。聖霊なる神が、この圧倒的な神の愛の中に、神の憐れみに生かされる世界に導き入れて下さる。
「あなたは神の子なのだ」と栄光の世界に招かれている。神の憐れみを受けて、敵を愛するという不可能と思えた生き方に導かれていくのだ。
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