「三位一体の神を経験して--教会の活性化--」  石橋秀雄牧師

 


「 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろい
ろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」

(コリントの信徒への手紙一 12章4節〜6節)



 
 信仰理解が異なると教会が混乱する。コリント教会において異言を語る人々がいた。聖霊が与えられたとして恍惚状態になって理解できない言葉を語る人々。突然に霊を受けたと熱狂的になり、叫びだし教会の礼拝が乱される。彼らは霊を受けたと熱狂的に語り、競い合うことさえあった。この様な人々をパウロは批判し、退けることをしない。そうではなくて修正して信仰者のあるべき姿をパウロは指示している。
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(3節)
 霊的熱狂者だけが霊を受けているのではない。「イエスは主である」と告白するところにこそ聖霊の働きがあるのだ。
 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」神の恵みによって様々な賜物が与えられている。
 「ある人には霊≠ノよって知恵の言葉、ある人には同じ霊≠ノよって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊≠ノよって信仰、ある人にはこの唯一の霊≠ノよって病気をいやす力……」等様々な賜物が霊によって神の恵みとして与えられていて、この賜物によって神の業に参与する者となる。
 「すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(6節)霊の賜物はすべて神から恵みとして与えられ、すべての教会の業は神の業となる。その働きの優劣を競い合うことはありえない。
 「一人一人に、霊≠フ働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(7節)
 コリント教会の個人主義は打ち破られている。
 日本基督教団信仰告白では「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神」と告白されている。パウロは「三位一体」の教理を知らない。この教理が確立するのは百年後だ。しかし、ここに三位一体の経験をパウロはしている。
 わたしたちも三位一体の神への理解をしていなくても三位一体の神を経験している。
 聖霊なる神がわたしたちの内に住んでくださることによって、「わたしの主よ」と告白する者に変えられ、そして、様々な賜物が一人一人に恵みとして与えられている。その働きの優劣ではない一人一人に神が賜物を恵みとして与えている。この賜物を生かして教会に仕える時、教会は活性化されて伝道の業が進むのだ。



 越谷教会月報「みつばさ」2022年6月号より



画像:「カシワバアジサイ」 は「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。