「安息日の主」  石橋秀雄牧師

 


「人の子は安息日の主である。 」
「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『 立って真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」

(ルカによる福音書6章5節・8節)



 安息日に主イエスは会堂に入られた。右手の萎えた人が会堂の隅に座っていた。「右手」、この働くに必要な手が動かない。働くことができず、貧しさと、右手が動かないことが神から罰を受けたと見られ、人とのつながりも、神とのつながりも断ち切られたみじめさをさらして生きている人だ。
 この安息日に祝福を受ける喜びの場が激しい怒りが沸き起こる場となっている。ファリサイ派の人々は訴える口実をみつけようと厳しい目を主イエスに向けている。主イエスは彼らの考えを見抜いて、右手の萎えた人に「立って真ん中に出なさい」と言われて、彼は恐る恐る立って会堂の真ん中に立つのだ。安息日の主の愛が右手の萎えた人を包む。
 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と鋭い言葉でファリサイ派の人々と律法学者たちに問う。
この主イエスの厳しい問いは、彼らの罪を抉り出す。右手を癒す行為は仕事と見られ律法違反となる。
 しかし、主イエスは「安息日の主」である。すなわち神である。主は「彼ら一同を見回して、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。」(10節) 
右手の萎えた人は「主イエスのみ言葉」に従って手を伸ばしたのだ。安息日に委ねたのだ。そうしたら癒された。この神が働かれる場が、怒り狂う場となっている。「ところが彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(11節)
 「彼らは怒り狂う」のだ。彼らの罪が膨れ上がる。「安息日の主を」「神を」怒り狂って十字架につけるのだ。神に一番近い、神に熱心と自他ともに認めるファリサイ人、律法学者の罪が、抉りだされる。 このどうにもならない人間の罪を背負って、主イエスは、十字架に命を捧げてくださった。
 安息日は七日目の土曜日から日曜日に変わった。週の初めの日、日曜日に主イエスが墓から蘇られたからだ。私たちを縛る罪から、あらゆる苦難から解放してくださったお方が安息日の主として、私たちの礼拝を祝福し、主の復活の命につながって生かしてくださる。
この主を高らかに賛美する礼拝を捧げたい。 
 

 越谷教会月報「みつばさ」2022年5月号より



画像:「砂丘のラクダ」 撮影 y.f.