「主の眼差しに包まれて」  石橋秀雄牧師

 


「 レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」

(ルカによる福音書5章27節)



 
 「レビという徴税人」を「主イエスが見て」とルカ福音書だけの表現が記される。ローマに支配されているイスラエルはローマから様々な税金を取り立てられる。この役割を担う徴税人は罪人として厳しい目で見られる。「収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」と記される。「見」という言葉で直ぐに浮かぶのは「ペトロ」を見つめる主イエスの眼差しだ。
 主イエスが逮捕されて大祭司の中庭に連れてこられる。この大祭司の庭でペトロは三度主イエスを否定する。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(22章61節)。激しく主イエスを否定するペトロを「振り向いて見つめられた」と記す。ルカ福音書は「主の眼差し」を丁寧に記す。
 主イエスの眼差しは、主イエスを激しく否定するペトロ、罪を犯すペトロに対して、激しい怒りの目ではなくペトロの罪を包み込む愛の眼差しだ。この主の愛の眼差しの中でペトロは自分の罪を見つめて激しく泣く。
 この眼差しで主イエスは収税所に座る徴税人レビを見つめて招かれるのだ。
 「収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」
 収税所に座る徴税人レビを見つめる人々の目は厳しい。罪人を見つめる目だ。軽蔑と怒りをあらわにする目だ。徴税人レビは、この人々の目にさらされて毎日生きていかなければならない。当然レビの人々を見つめる目も鋭く厳しい。敵意に満ちた目で人々を見返す。税の取り立ても怒りに燃えて取り立てる。レビは、ますます厳しい取り立てをし、私服を肥やし莫大な財を築いている。
 主イエスの眼差しは、レビの罪を包み込む眼差しだ。主イエスのゆるしの愛の眼差しにレビは包まれる。
 この主イエスの眼差しで呼びかけ招かれたとき、レビは即座に応答する。
 「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」(28節)。
 そして「盛大な宴会」を開き、沢山の徴税人などを招くのだ。主イエスが中心におられる「盛大な宴会場」は一変して喜びと笑いにあふれる。新しい世界の創造だ。
 罪人が神の愛に包まれ、喜びの世界に招かれている。
 到底受け入れられない罪人が、「神に完全に受け入れられ神の愛に包まれ、喜びにあふれる世界」に招き入れられたのだ。
 主イエスの眼差しで、徴税人の心の目が開かれ、人々を見つめる眼差しが変わる。罪人の集まりである宴会が救われ癒された者の宴会に変わった。奇跡が起こった。新しい共同体が創造された。教会の誕生だ。
 十字架と復活の主の命をいただいて、主イエスの眼差しに、ゆるしの愛に包まれた新しい共同体である教会の誕生だ。
 主イエスの眼差しで、わたしたちも見つめ合い、笑いと喜びにあふれた共同体である教会を形成していきたい。



 越谷教会月報「みつばさ」2022年4月号より



画像:「三春の水芭蕉」 は「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。