「 この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。」
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(ルカによる福音書5章12節) |
どうにもならない現実の中で深い痛みと悲しみを背負って生きなければならない重い皮膚病に苦しむ人の悲惨が示されている。律法によってエルサレムから、城壁に囲まれた町から、住み慣れた町村から、家族から引き離されて、汚れた者、罪を犯した者と見なされて町村から排除され、人里離れた地で同病者と共に隔離されて生きなければならなかった。
病に苦しみ、社会からはじきだされ、信仰の世界から見放されて、神も敵になる現実を生きなければならない。この重い皮膚病で苦しむ人が主イエスに出会っている。
全身重い皮膚病にかかった人が「イエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。」(12節)
「主よ、清くしてください」とは言わない。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、主イエスを信じる信仰が示されているこの部分は「非常に強い表現である」と注解者は語る。主イエスが「癒す」と語られたら、癒されるのだ。全身重い皮膚病にかかっている人の、主イエスへの断固たる信仰告白だ。この信仰告白が主イエスの心を動かす。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」(13節)
主イエスはこの全身重い皮膚病にかかっている人に手を差し伸べ、全身重い皮膚病にかかっている人の痛みを自らの痛みとして受け止められる。
わたしたちの痛みをご自分の痛みとして受け止めて癒すことがお出来になる神であることが示されている。
重い皮膚病に苦しむ人の断固たる信仰告白に主イエスは応答される。
大勢の群衆が主イエスの噂を聞いて集まって来る。しかし、主イエスは群衆から去っていく。この群衆の中に信仰を見ることができないからだ。病気の癒しを求め、奇跡を求めて主イエスに殺到する。奇跡をいくらみても救われない。主イエスがどなたであるかが分からなければ、救われない。
罪が赦されなくては救われないのだ。罪と死が克服されなければ救われないのだ。
このお方こそが「贖い主です。神です」と信仰告白をして「ひれ伏して拝む」ことによって救われる。「ひれ伏して拝み礼拝」をすることによって救いの確信を持つことが出来る。この礼拝においてどうにもならない現実を生きる力が与えられる。
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