「 神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
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(ルカによる福音書4章3節) |
川村元気の小説「神曲」が話題になっている。
川村元気は、カトリック教会で上智の聖歌隊の賛美の歌に包まれて涙が止まらないという経験をする。「クリスチャンではないけど神を信じる人の気持ちが分かるような気がする」と語る。この経験が小説になった。凄惨な通り魔によって長男が犠牲になる。この絶望の深みから救われていく物語だ。
妻が美しい声で讃美歌を歌う。娘も母親の声に重ねて美しいソプラノで歌う。
「永遠様に歌うと奏汰(カナタ)に会えるの。お願い、信じて。これは真理なの。そこには、生も死もない。わたしたちは、永遠につながっているの」と妻が賛美の世界に主人公の夫を誘う。
妻と娘の賛美に包まれ夫は「自分は信じるものがなかった。一体いつから、何かを信じる心を失ったのか。あるいは信じるべきものが、まわりから失われていっただけなのだろうか」と自問する。「『世界が信じるに足りないものだけだとしても、その美しさだけは確かなものだ』と感じて涙をとめることができなかった」と語る。
「コロナ禍で不信と憎悪が広がり誰も信じない、自分も信じない。ワクチンをめぐるデマが広がり、信じる力が弱くなり、疑う力が強くなっている」と川村元気は語る。
コロナ禍の中で、疑う力が強くなり、絶望して他者を道づれに死ぬという凄惨な事件が多発している。
コロナ禍の痛みの中で、荒れ野で悪魔と闘う主イエスが指し示される。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(ルカによる福音書4章3節)
「もし神の子なら」と訳せる。主イエスが」「神の子であるかどうか」が問われている。さらに「もし救い主なら」とその救いについても問われている。
世界は夥しい人々が飢餓に苦しんでいる。「石をパンに変える」ことができればどれほどの人が救われるだろうか。これほどの夥しい人々が飢餓で苦しみ死んで行っているのに神は救えないのかと、神の存在も疑われる事態だ。
主イエスは「人はパンのみで生きる者ではない」と書いてある申命記の御言葉で悪魔と戦われる。
「神への無限の信頼によって、ご自身が神の子であることを証明された」(レングストルフ)。
天地を創造されたのは神だ。すべての命あるものを創造されたのは神だ。御言葉で創造された。神が創造された命を神が育て養われないはずがないと「無限の信頼」「絶対的信頼」を示す事によって主イエスが「神の子」であることを証明され悪魔の誘惑を退けられた。「無限の信頼」「絶対的信頼」が賛美の歌となる。この賛美の歌が歌えることが、荒れ野のただ中を希望をもって生きぬく力であることが示されている。
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