「今は恵みの時」 石橋秀雄牧師

 

「  蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。……斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 」

(ルカによる福音書3章7節〜9節)



 
 バプテスマのヨハネが荒れ野に立って叫んでいる。
 荒れ野は、人間が生きる現実を示している。荒れ野は人間の未来を閉ざす力に満ち、この力に翻弄される。しかし、コロナ禍が、権力者の悪政が、世界を荒れ野にしてしまっていると言われるが、そうではない。神の前での人間の罪が、人間が生きる場を荒れ野にしてしまっている。
 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」火が燃え上がって蝮が逃げまどっている。神の激しい裁きが下されようとしている。神の怒りの炎が燃え上がろうとしているのだ。
 しかし、この現実の中で希望の道を指し示す。
 「斧は既に木の根元に置かれている。」(9節)しかし、「斧は振り下ろされてはいない」。
 「今はなお恵みの時」なのだ。「方向転換をして、悔い改めて神に立ち帰る時が与えられている。
 民衆はメシアの到来を待ち望んでいる。ヨハネの力ある言葉とバプテスマによってヨハネがメシアではないかと期待する人々が増えて行った。しかし、ヨハネはメシアではない。ヨハネ自身が『自分はメシアの履物のひもを解く値打ちもない』と語る。靴のひもを解くのは僕の仕事だ。この僕以下の存在であることをヨハネは語る。
 「その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」とヨハネは語る。「聖霊と火」は「風と火」と訳すこともできる。風と火は聖霊によって神の臨在を示すシンボルだ。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒言行録2章2節・3節)
 洗礼を受けるということは、十字架の主と共に罪に死に、復活の主と共に死から蘇り、一人一人に聖霊が注がれて、聖霊なる神と共に生きる道が備えられている。
 「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」(18節)
 ヨハネは福音を指し示している。福音とは主イエス・キリストそのものだ。福音を信じて悔い改めて、洗礼を受けて罪が救われて、聖霊なる神の力を心の奥深くいただいて生きることがゆるされている。
 「今は恵みの時だ」、神の忍耐で天の門が開かれている。この希望をいただいて、荒れ野の中を聖霊の力を受けて希望をもって生きることができるのだ。

 


  越谷教会月報「みつばさ」2021年11月号より



画像:青空に白鳥 は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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