「 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 」
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(ルカによる福音書1章57節) |
ザカリアが天使ガブリエルから「男の子を産む」と聞かされた時「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(ルカによる福音書1章18節)と天使に応えた。
ザカリアは祭司だ。神を信じている。しかし、神の言葉を信じる事ができなかった。その為に口が利けなくなった。
エリサベトから子が生れるまでの十か月間は、口が利けない。この十か月の沈黙。この沈黙は自分の不信仰を見つめ、神の業を見続ける十か月であり、不信仰を黙らせる十か月だ。
ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた時、ザカリアは「口が開き、舌がほどけた」。沈黙の時を経てザカリアは神を賛美する者となる。
「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ書3章23節)
ヨハネは「主の力」に満たされてエリヤの働きをなす預言者として主イエスを指し示す。
「恐るべき主の日」は神が人類の罪、わたしたちの罪を裁く神の審判の日だ。しかし、同時に天地創造の神の救いの業が成就する日だ。神を否定する人々の叫びは凄まじい。「十字架につけろ、十字架につけろ」との人びとの叫びの中で、十字架を担いでよたよたと歩く主イエス、ここに神を感じることはできない。
「恐るべき主の日」の裁きを神の子が、神が一身に担って十字架の死の道を歩まれる。十字架の主の死を見つめた百人隊長はイエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」(マルコによる福音書15章39節)と言った。
主イエスの十字架の死は不信仰な叫びをあげた人々を沈黙させる。
主イエスは十字架から復活されたのだ。復活した主は、裏切って逃げ去った弟子をなお愛して弟子として使徒として招かれる。
わたしたちの罪を赦して、永遠の命の世界に招いて下さった。
「裁きの日は」「大いなる神の救いを受ける日」となった。ザカリアは十か月の沈黙ののち、喜びにあふれて神を賛美した。わたしたちも沈黙し、神の救いの業を見、高らかに神を賛美する者でありたい。この礼拝を心から捧げる者でありたいのだ。
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