「沈黙の中に --神の業を見る--」 石橋秀雄牧師

 

「 天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。……妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。 」

(ルカによる福音書1章19節、24節)



 
 ザカリアとエリサベトの日常は祭司として神に仕える業、モーセから始まる信仰の歴史につながる仕事をしていた。しかし祭司の家なのに神の祝福を受けていない。
 神の祝福を受けているしるしとしての子どもが生まれないのだ。エリサベトはこの事を、「自分の恥」と受け止めて苦しむ日常の生活だ。
 しかし、この日常が神に覚えられていたのだ。ザカリアの日常の業の中に、エリサベトの生活の日常の中に神の業を見る。
 神の壮大な御計画がその日常の中に強烈に示される。
 聖所の中で香を焚き祈っている時、「主の天使が香壇の右に立った」。神の臨在を強烈に感じてザカリアは恐れおののきうろたえる。
 「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」ヨハネの誕生はザカリアの「喜びであり楽しみ」であると共に「多くの人の喜びとなり楽しみとなる誕生」であることが示される。
 「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」ザカリアは最初に福音を聞く者とされたのだ。
 ザカリアは疑ったが故に口が利けなくなった。これは神の裁きのように見える。しかし、神の圧倒的救いの業を見る者とするために神は口を閉ざされる。この沈黙の時は、神のしるしを見る、神の業を見るために、沈黙して神の御言葉を聞くことが求められる。やがて、ザカリアと多くの民の「喜びと楽しみ」となる神の救いの業を見ることになる。エリサベトも沈黙する。
 「妻エリサべトは身ごもって五か月の間身を隠していた。」この沈黙は「喜びと楽しみ」を深く味わい知る至福の時だ。神の業によって確かな命の鼓動を胎の中で受け止め続けている。神の業を自らの内に見ることができるのだ。
 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(25節)大いなる神からの「喜びと楽しみ」を深く知る者となった。
 わたしたちも聖餐式において、十字架と復活によって与えられた命、十字架と復活の神の命を心の中に深く味わうことができるのだ。
 どんな苦難の中でも消えることがない「喜びと楽しみ」を深く知る者として生かされている。 


  越谷教会月報「みつばさ」2021年5月号より



画像:なんじゃもんじゃの木と月 は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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