「心にかけてくださる」 石橋秀雄牧師

 

「 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 」

(ペトロの手紙一 5章7節)



 
 第一ペトロ5章5節に「互いに謙遜を身に着けなさい」とある。「謙遜」はギリシャ語で「低い」を意味する言葉と「考え」を意味する言葉でできている。「自分の低さを考える」と直訳することができる。
 「謙遜を身に着けなさい」の「身に着けなさい」と訳されるギリシャ語は「結び目のある服」と訳すことができ、前掛けのような作業着をさしている。「謙遜を身に着ける」とは、奴隷がつける前掛けで「低さの極限」が示されている。
 ヨハネ福音書で主イエスは「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」とある。奴隷になって弟子たちの足を洗われたのだ。
 私たちの足、足で歩く人生、罪を重ねる人生を、奴隷のように身を低くして洗い、汚れから、罪から救いあげる十字架が示されている。
 十字架の主イエスは謙遜そのものだ。自分を徹底的に低くして人間の罪の深みにつながり、そこから私たちを復活の希望の世界に導いて下さった。
  「神の力強い御手の下で低くしなさい」これは受動態で記されている。「神の力強い御手で低くされなさい」という意味だ。神によって低くされる事が救われる事だ。主イエスは私たちの罪を背負って十字架に死んでくださった。私たちの罪がどれほどのものか十字架によって示された。
 私たちは主イエスの十字架によって「自分の低さ」を思い知る。自分の罪の深さを思い知る。そして、神の前に罪を告白して悔い改めざるを得ない。 
 そして如何に大きな神の愛に包まれているか、神の力強い御手に包まれて生かされているかを知る。
 この低さの極限から「かの時」(6節)が示される。低さの極限から瞬く間に「かの時」に高められる」のだ。罪の闇から突然に復活の朝が来るのだ。
 「かの時」とは「死を越えた世界、永遠の命の世界」を示している。罪の深みから突然復活の世界、神の家に高められる「時」が来る。
  「皆互いに謙遜を身に着けなさい」「主イエスの謙遜を身に着けなさい」と教えられる。主イエスの謙遜とは十字架の主イエスの愛を身に着けることだ。謙遜の主イエスで示されることは「徹底的に愛し抜く」神の愛だ。
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」「お任せしなさい」と訳されている言葉は、投げつけると訳すことができる強い言葉だ。
 自分の力で思い煩いから自由になることはできない。だから「神に投げつけなさい」というのだ。
日常の生活から死に向かう私たちの人生のすべてを神は心にかけてくださり「かの時」の大いなる希望に向かって導かれているのだ。 


  越谷教会月報「みつばさ」2021年4月号より



画像:東の空に は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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