「やっと辛うじて」 石橋秀雄牧師

 

「 正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか 」

(ペトロの手紙一 4章18節)



 
 「今こそ、神の家から裁きが始まる。」と記されている。
 神の家とはキリスト者の教会を指している。
 教会は新しいイスラエルと言われる。神の選ばれたイスラエルの裁きについて旧約聖書にもしるされている。
 「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」(アモス書3章2節)
 神が選んだ神の家から裁きが始まる。その犯した罪の故に激しい裁きが下される。しかし、神は裁きさることはなさらない。この罪の裁きから救いの道が開かれ、裁きの中に神の選んだ民をなんとしても救い上げると言う神の熱心、神の強烈な御意思が示される。
 「裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。」(コリントの信徒への手紙一  11章32節)
 神の裁きは、罪に滅ぶものとならないように「主の懲らしめ」だとパウロは語っている。
 「懲らしめ」と訳す事が出来る。裁きは裁かれて滅ぶことがないように神の教育だと示されている。
 「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」との御言葉が響きわたる。この部分はノアの洪水を思い起こさせる。 
 「正しい人ノア」は神の言葉を信じて箱舟を造り続ける。
 ノアと子たちの夫婦、八人は大洪水に翻弄される時、どのような思いだっただろうか。この小さな舟が世界を滅ぼす大洪水に翻弄される。しかし、救われた。
 神の裁きの場が神の愛を強烈に受け止める場となった。
 正しい人、主イエスは十字架にかけられて神の裁きを受けて十字架に殺され、そして、神の激しい罪の裁きを受けて復活された。
 激しい裁きの後、強烈な神の愛に包まれて救われることが示されている。
 キリスト者は神の裁きの後、「やっと、辛うじて」救われるのだ。神の懲らしめで、神の裁きで、罪が暴露される。しかし、主イエスを信じる信仰の故に「やっと辛うじて」救われる。
 わたしたちの内にある罪が暴露されて、神の懲らしめによって救われる。懲らしめが神の教育であることに深い神の愛が示されている。
 神を信じる神の民キリスト者は、主イエス・キリストを信じる信仰の故に「やっと辛うじて」救われるのだ。


  越谷教会月報「みつばさ」2021年3月号より



画像:精進湖は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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