「残りの生涯」 石橋秀雄牧師

 

「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」

(ペトロの手紙一 4章2節)



 
 「残りの生涯」と言われる時、年齢を重ねて年老いた残りの生涯と思ってしまう。第一ペトロは洗礼を受けた人に対して語る。
 洗礼はあらゆる年齢層の者が受ける。若者もいれば年老いた者もいる。
 「洗礼を受けた」後の「残りの生涯」だ。この「残りの生涯」を如何に生きるかが問われている。
キリストは天も地も支配しておられる。
 この「洗礼を受けた者」は「キリストの憐みと恵みが支配する喜びと希望の時」に生かされる者だ。すなわち「キリストの時」に「神の時」に生かされている者のことだ。「肉」とは「神なしの『人の時』に生きる者」を指す。
 単に人間の身体という物質的なものを意味するのではなく、身体も心も、神を離れて生きるすべての事柄を指している。洗礼によってキリストと一体になって、私たちの内にある罪が「断ち切られた」のだ。
 「洗礼は神の圧倒的再創造の御業」だ。洗礼は強烈な神体験だ。罪が断ち切られて神の憐みの支配、神の恵みの支配の中で生かされるのだ。「キリストの時」、「神の時に生きる者」とされたのだ。
 「神の時ではなく、人間の時を欲望のままに生きる生き方をしてきた者」に「もうそれで十分です。」(3節)と語られる時、欲望が中心になって、神の時を壊す問題は身近なものとして示される。欲望が中心の人生は、最後は飽きてしまい、身を亡ぼすことにもなってしまう。
 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」(6節)
 死んだ世界から福音によって神の命の世界に引き上げられた。「霊において」生きる人生は、死から始まる人生と言える。
 「人の時の終わり」は「神の時の始まり」だ。主イエス・キリストの復活の命に包まれて「喜びと希望にあふれた神の時に生きる者」とされている。洗礼を受けた「残りの生涯」こそ、真の人生だ。
 この「恵みと憐みと希望にあふれた残りの生涯」を「キリストの時」を生きる者となりなさいと教えられている。


  越谷教会月報「みつばさ」2021年2月号より



画像:メジロは 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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