「祝福を祈る者として」 石橋秀雄牧師

 

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

(ペトロの手紙一 3章9節)



 
 「憐れみ深く」(8節)と訳されているギリシャ語の言葉は「良い内臓」と訳すことが出来る。新約聖書の時代は内臓が人間の感情の源と考えられていた。
 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイによる福音書9章36節)
 この「深く憐れむ」と訳されている言葉は「はらわたの底から」と訳すことが出来る。主イエスは「はらわたの底から同情された」そして「主イエス」この神が「十字架で、はらわたを裂き私たちの罪を担い苦しんで十字架に死んでくださった」のだ。
 「はらわたが煮えくり返る」という経験をすることがある。
 最初のクリスマスを経験した羊飼いたちは、町の人々に対して「はらわたが煮えくり返る思い」をしていたに違いない。町の人々からは「盗人、汚れた罪人」と見下されていたからだ。
 しかし、真っ先に救い主の誕生が知らされ、そして、真っ先に神の業を見た。飼い葉桶の赤ちゃんを真っ先に拝むことが出来た。驚きと喜びの中で神の祝福を受けている感動を味わった。そして、町に飛んで行って、この驚きと喜びを、神の祝福を受けている「感動」を語っている。
 町の人々に対する「はらわたが煮えくり返る思い」は羊飼いからは吹き飛んでしまっている。「喜びを祝福を」伝えたい一心で町に飛んでいく羊飼いを想像することが出来る。
 旧約聖書で示される神の前での神の民は「神の『はらわたが煮えくり返るような』怒りを感じる罪を犯す神の民であった」のだ。そして、それは神の前での私たちの姿だ。
 しかし、神である主イエス・キリストが十字架で神の怒りをご自身で受け、十字架で「はらわたを裂き」「血を流して」死んでくださったのだ。そして私たちは救われ、神の祝福をあふれるほど受けて生かされている。
 「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、・・・彼の内には真理がないからだ。」(ヨハネによる福音書8章44節)
 「悪に対して悪」「侮辱に対して侮辱」で報いることは悪魔の子の業であることが示される。侮辱は相手の欠点をあげつらって、相手を滅ぼすことになるのだ。悪魔の子として生きることはあってはならない。「悪魔の子」が「キリストの十字架と復活」によって「神の子」として生まれ変わらされたのだ。
 この祝福を受け継ぎ、この祝福を祈る者として生きる事が求められている。


  越谷教会月報「みつばさ」2021年1月号より



画像:日の出は 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。


  

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