みことばに聞く  

 「十字架に運び上げる」  石橋秀雄牧師

 


「 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」 

(ペトロの手紙一 2章24節)



  
  「わたしたちの罪を運び上げました。自らの体であの木の上に。」
宮平先生の直訳だ。
 ギリシャ語の「アナフェロー」の直訳だ。「アナ(上に)フェロー(運ぶ)」だ。キリストは罪を十字架に運び上げて、自ら罪を背負って死んでくださったのだ。主イエスは何度も石で打ち殺されそうになった。
 律法の違反者は石を投げて殺される。しかし、主イエスは石で殺されなかった。主イエス・キリストは罪のないお方だ。聖なる神の独り子だ。
 罪のないお方が、私たちの罪を背負って十字架に運び上げて罪と共に死に、罪を滅ぼされたのだ。私たちの罪を贖ってくださったのだ。
 罪を取り去ってくださった。この主イエスの受けた傷によって、私たちの心の傷、どうにもならない魂の傷が癒される。ズタズタに引き裂かれて、どうすることもできない魂の傷が癒される。
 「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」(イザヤ書53章6節)と記されている。
 羊は群れを離れては生きていけない。羊飼いから離れてしまったらその先にあるのは滅びだ。傷ついて道を見失って滅びの世界に転落していくのだ。罪にまみれて転落していく以外にない。
 主イエス・キリストは、この羊を背負って、罪を背負って十字架に上り、そこで罪と一緒に死んでくださった。罪を滅ぼしてくださり主イエスの復活の世界に導かれた。
 ズタズタに引き裂かれた関係が、復活の主イエスと繋がることが出来た。人間を救うために神が主イエス・キリストによって十字架に死んでくださった。神の信じられないほどの愛と命あふれる世界に導かれたのだ。
 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)
「戻って来たのです」とある。本来のあるべきところに迷った羊をかついで戻ることが出来たのです。しかも、「魂の牧者」としての神が監督者として、わたしたちを守ってくださっているのだ。
 本来あるべきところに戻ることが出来、この本来あるべきところから決して切り離されないという希望の世界に生きる者とされたのだ。
 主イエスの復活の命に与かって、神の国、永遠の命の世界に繋がって切り離されることはないという、確かな希望の中に生きることが出来ている。

 越谷教会月報「みつばさ」2020年12月号より




画像:「夕焼けススキ」は、朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。.

  


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