「 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
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(ペトロの手紙一 1章13節) |
新型コロナウイルスについては「正しく恐れる」事の大切さが示されている。
しかし、恐れの思いが強くなり、正しくが吹き飛んで、感染者や感染施設へのバッシングがなされ、殺伐とした社会になっている。特に感染者が自分の責任ではないのに人格が傷つけられて、罪が支配する社会かと思うほどだ。
試練や苦難の中で、「正しくの正しさ」が失われて、恐れの思いがわたしたちの中に膨らんで苦しむのは「私たちが『無知』だからだ」とペトロの手紙(一)で教えられる。14節「無知であったころの欲望に引きずられることなく」とある。「無知」とはギリシャ語で「アグノイア」と言い、ギリシャ語でアグノイアという時、「神に対して無知」であることを意味している。神の業に対して無知なのだ。主イエス・キリストに対して頑迷な無知を意味している。「恐れの思いが膨らんで、私たちの生き方が混乱する」のは、本当に正しいお方、聖なるお方である神に対し無知であり、主イエス・キリストに対して無知だからだとペトロの手紙(一)は語る。
「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」(13節)。「現れる」と訳されている言葉は「啓示」と訳すことが出来る。「啓示」は聖書の信仰を示す重要な言葉だ。啓示はギリシャ語で「アポカルプシス」と言い、アポとは「取る」という意味で、カルプシスは「覆い」という意味だ。啓示とは覆いが取られることだ。
神が覆いを取ってくださった、強烈な衝撃を受ける。十字架で惨めに死んでいく主イエスが示されるのだ。光輝く救い主ではなく、十字架に死んでいく主イエスが示され、主イエスが、神が十字架で死んでくださったことが明らかにされる。
人間を滅びに突き落とす罪、罪の故に恐れおののく人間、人間の心が恐れで一杯になる。
この恐れを取り除く為に、主イエスが十字架の道を歩まれたのだ。
それは欲望が膨らんで、汚れと罪の中に沈み恐れおののき、死の恐怖に支配されて、不安と絶望に滅んでいく人間と一つになってくださった神の愛が強烈に示される。覆いが取られて、あらゆる恐れから救い上げるという神の御意思が明らかになったのだ。
信仰を持つということは救われることだ。救われるということは神の恵みに包まれることだ。そして「私の福音」と私の中に喜びが膨らんで行く。
「正しく恐れる」この恐れが膨らんでいく現実の中で「私の福音」が「喜び」が膨らんでいく。だから「キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と力を込めて語られている。
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