「 知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。・・・義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」
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(ヤコブの手紙3章13~18節) |
今、日本社会でコロナの感染で自粛生活をする中で、精神的に追い詰められたり、いら立ったり、正しさを振りかざして、他者を激しく裁くといった行動が問題になっている。正しさを振りかざして自警団のように他者を監視する。コロナに怯えるより人に怯えて生活しなければならない窮屈な社会になってしまっている。
このような私たちの現実の中に「上からの知恵」を求め、「上なる知恵によって生きる者となりなさい」と教えられる。
「地上の知恵」について14節以下に記される。「自分の利益、不純な動機、利己心、虚栄心」が働いて、キリストを告げながら、「内心は妬み深く利己的」動機が不純、真理に逆らって嘘を語り、キリストを語りながら、キリストを否定している。知らず知らずのうちに信仰共同体の破壊者になり悪魔に足をすぐすくわれてしまい、結局は不平や不満の中で疲れ切ってしまっている。この人々に「上なる知恵を求めなさい」との御言葉が響く。
詩編37編に柔和について指し示される。一節「悪をなす者に怒りを燃やすな。不正を働くものを妬むな。」(聖書協会共同訳)8節「怒りを解き、憤りを捨てよ。……いら立ってはならない。」と記されている。
今私たちの社会で、「いら立ち」が膨らみ、裁き合い、自分を見失なって疲れ切っている私たちなのではないか。このような私たちに「上なる知恵を求めなさい」と語り、上なる知恵そのものである主イエス・キリストが指し示される。このお方こそ柔和な救い主であり、柔和な主の招きの言葉が、響きわたる。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28~30節)
主イエスは柔和な主であり、「上なる知恵そのもの」であられる。この柔和な主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と怒りから、いら立ちから、妬みから解放してくださり、さらに「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られている。
軛は二つだ。二頭の牛がつながれて農作業をする。「わたしの軛は負いやすい」主イエスがもう一つの軛につながって下さり共に歩むことができるから負いやすいのだ。柔和な主イエスがつながってくださり、平和の種を蒔き育てられながら歩み、キリストの平和を指し示す使命に生きるところに「安らぎがある」と教えられる。今のこの現実の中で信仰者の使命が示される。
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