みことばに聞く

 「兄弟の前に置かない」  石橋秀雄牧師

 


「 つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 」 

(ローマの信徒への手紙14章13節)



  
  ローマ教会で「裁きあい、軽蔑しあっていた」。教会の人間関係は最悪だ。ローマ教会の問題は2000年の歴史の中にある教会、今日の私たちの教会の問題でもある。
 この教会に「互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13節)とパウロは語る。その教えの中心にあるのは「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(15節)との確信から出る御言葉だ。主の十字架の愛に満たされていて、兄弟を、隣人を「裁き軽蔑することができますか」と厳しく問われている。「人を裁いて、軽蔑していて」キリストの愛は語れないのだ。
 17節に「神の国」は「義と平和」にあふれた喜びの世界だとパウロは語る。神から義とされたもの、すなわちキリストの十字架と復活によって、罪許されて、神の国に入るにふさわしい者と認められた喜びに溢れた者の世界だ。この、やがて終末の時に与えられる神の国は、聖霊の働きによって、「すでに」礼拝をささげることによって味わうことが出来る。
 神の国において「裁きや軽蔑」はあり得ない世界だ。だからこの喜びを奪う「つまずきとなるもの、妨げになるもの」を兄弟、隣人の前に置いてはならない。躓きの石を置いてはならないとパウロは厳しく教えている。
 38年ぶりに来日したフランシスコ教皇の広島平和公園でのメッセージが心に響いた。
 「あらゆる紛争の犠牲者の名により、声を合わせて叫ぼう、戦争はもういらない、兵器の轟音はもういらない。こんな苦しみはもういらない」と語られた。この叫びは「その兄弟の為に死んでくださったのです」との確信から出た叫びだ。「一切の命を脅かすもの、キリストの喜びを奪うものを兄弟、隣人の前に置いてはならない」とのメッセージが広島から響き渡った。

 越谷教会月報「みつばさ」2019年12月号より



画像:「アドヴェント第2主日」 撮影y.f..

  


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