みことばに聞く

 「無限の愛に包まれて」  石橋秀雄牧師

 


「 『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。」 

(ローマの信徒への手紙13章9~10節)



  
  律法として示される掟は613ある。この一つ一つを記憶して守る事は困難だ。モーセの十戒は二枚の板に記される。二枚目の板に「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」と記されているとパウロは語りながら、「『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約される」と主イエスの御言葉を指し示す。
 幼稚園のお泊り保育の礼拝で「自分を愛している人」、「隣人を愛している人」と二度問うたら全員見事に手を上げた。しかし、保育者は誰も手を上げない。この見事に手を上げた姿を写真に撮りたくて子どもたちにお願いしたらやはり見事に手を上げてくれた。この写真を見たら保育者が一人手を上げていた。わたしは思わず「嘘つけ」と言ってしまった。
 子どもは過去の自分も、先の事も考えない。今を生きる。「自分を愛している人」「隣人を愛している人」と問われて、手を上げたらすぐ友だちの事を考える生活を始める。友だちを気づかう生活を始めるのだ。
 私たちは過去の自分を考え、これからの自分の生き方を考えるととても手を上げる事ができない。
 「愛は隣人に悪を行いません。」(10節)この悪とは「害」と訳すことができる。「愛は隣り人に害を加えることはない。」(口語訳)と訳される。
 害として問われたら、隣人に迷惑をかけながら、傷つけながら生きている自分を思わずにはいられない。
 主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」とマタイによる福音書で教えられている。隣人とは、愛せない者も愛の対象として生きることだと教えられる。
 この御言葉を聞きながら、主の前に悔い改めと赦しなしには歩む事が出来ない自分であることを思い知らされる。
 この私たちが礼拝に招かれ、十字架の無限の愛に包まれる。礼拝で赦されたものとして生活の場に押し出される。
 主の十字架の愛に押し出される時、隣人を愛するということにおいて、普通は気にならない事が気になりだすのだ。大事と思わない事が大事になり、愛せなくて当然だと思うところで、愛せないことが自分の罪として問われる。この罪を赦しの主が包んで下さり、主の香を放つものとして主が生かして下さるのだ。   

 越谷教会月報「みつばさ」2019年10月号より



画像:「夕焼け」は、朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。.

  


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