「 『 わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』・・・。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 」
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(ローマの信徒への手紙11章4節~5節) |
ユダヤ人の救いの問題は全人類の救いの問題として語られている。
アルトハウス訳では、11章の1節「では問おう。神は『その民を見放したもうた』のであろうか? とんでもない。このわたしだって、イスラエル人ではないか!
アブラハムの子孫、ベニヤミン族の一員ではないか!」とある。
ここぞという時、選びの民であるユダヤ人は、主イエス、この神であるお方を十字架で処刑してしまった。このユダヤ人は「神に見放されたのか」「神に見捨てられたのか」「とんでもない」とパウロは強く否定する。
神を見捨て、神の子、三位一体の子なる神を十字架にかけて殺した。ユダヤ人は神に見捨てられた民なのか。「断じてそうではない」と、ご自分が選んだ民を決して見捨てることがないとの主の御心が示されている。
パウロはユダヤ人だ。パウロは自分自身もユダヤ人であることを示して、エリヤに語られた主の言葉を語る。
「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王記上19章18節)
「恵みによって選ばれた者が残っています。」
パウロ、そして、エリヤと七千人で示される事は「恵みの神」だ。人の行いによるのではない、ただただ神の選びと恵みによって救われたということがユダヤ人によって示される。
ユダヤ人の罪は深刻だ。その罪に対する裁きを求める祈りが10節で語られる。それは、詩編69編の引用だ。「どうか、彼らの食卓が彼ら自身に罠となり、仲間には落とし穴となりますように。彼らの目を暗くして、見ることができないようにし、腰は絶えず震えるようにしてください。」(23節〜24節)
罠は突如としてやって来るのだ。食卓は楽しみと喜びの場です。その楽しみと喜びの場が落とし穴となって、生活が突然崩されるように。「腰は絶えず震えるようにしてください」、「背中に思い荷物を背負ってよたよた歩くようにしてください」という意味だ。
人生には重いものを背負ってよたよた歩くということがある。この背中に背負う重荷が取り去られたらと思うことがある。しかし、深刻な事は背負っている重荷が何であるか分からないということだ。実は罪を背負ってよたよた歩いているのだ。その罪が分からない。何故、人生をよたよたよろめきながら歩くのか、その原因が罪にあることが分からない。
背負いきれない重荷で足が震えるのです。神から呪われて滅ぼされる罪、罪の重荷を背負ってよたよたとよろめきながら歩く民、その罪を主イエス・キリストが、十字架を背負って、罪を背負ってゴルゴタに向かってよたよた歩き、あなたを見捨てない。この罪から救うと十字架に死んで下さった。この主イエスの十字架と復活の主を信じる信仰によって救われる。
世界を支配しているのは、この主の恵みだ。
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