みことばに聞く

 「 つまずきの石 」  石橋秀雄牧師

 


「 見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない 」

(ローマの信徒への手紙9章33節)



  「躓いた」という時は、それは「相手の問題を指摘する」ということになる。躓いた自分は問題にならない。常に相手の問題だ。
 今日の聖書は「神に躓く」問題が語られていく。
 「躓きの神」だ。このような神を信じる事は出来ないという事になる。躓く時、それは何時も神の側の問題だ。
 「イスラエルは…つまずきの石につまずいた」(32節)とある。
 「躓きの石」とは何か、まさに神の断固たるご意志が躓きの石となったのだ。
 アブラハムに示された神のご意志だ。
 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6節)
 アブラハムとサラに子供が生まれないという絶望的現実の中にあっても「天の星のように子孫が増え繁栄する」との言葉を信じたのだ。到底信じられない現実の中で神を信じた。それで、アブラハムは義とされたのだ。神との正しい関係に生きる者とされた。
 この「信仰によって救われる」という神のご意志が躓きの石になったのだ。神の断固たるご意志によって異邦人が救われた。神とは無関係な、神の言葉など知らない神の前に汚れた民が「信じる事によって義」とされ神の計画は進んでいる。
 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(ローマ書9章33節)
 この御言葉はイザヤ書28章16節の引用だ。この箇所を見てみると重要な御言葉が示されている。
 「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。」
 石は堅く据えられた礎だ。貴い隅の石だ。隅の親石ともいわれている。
 建物を建てていって、捨てられた石が、最後の所で建物を強化する親石になったということだ。この石に依り頼むなら「慌てることはない」と語られている。
 神の支配する歴史の中で示される信仰だ。神が分からないという現実は確かにある。神の存在を疑いたくなる問題が繰り返し起こり私たちを苦しめる。しかし、神の支配する歴史の中で、神が堅く据えられた礎、貴い隅の石、これを信じる者は慌てることはないのだ。この断固たるご意志が十字架に示される。十字架はつまずきだ。しかし、信じている者には「救われる者には神の力」(コリントの信徒への手紙一 1章18節)なのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2019年4月号より



画像:「薔薇ドルトムント」撮影y.f.

  


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