「 わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ 」
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(ローマの信徒への手紙9章13節) |
イスラエルは聖書の信仰に生きるものにとって特別だ。しかし、ニュースで報道される、パレスチナへの攻撃とその悲劇に目を向ける時、イスラエルと口に出すことに戸惑いを覚える。
新約学者のアルトハウスは「救済史の担い手となるはずの民が、ここぞというときに救いに背を向けてしまった。救いなき民になってしまったのだ。解しがたきも重苦しき謎よ!」と記す。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」この御言葉に躓く人は少なくない。
神は不公平な神、本当に不公平な神なのか。パウロは14節で「ではどうなのか?神は不公平なのか?とんでもない」(アルトハウス訳)と否定している。「エサウを憎んだ」と語られる、そのところに神の完全な救いの業が示される。
キリストは永遠なる神だ。完全な救いを実現する救い主だ。「神を憎む。神に憎まれる」そこに働かれる愛の神だ。「エサウを憎んだ」このエサウに働かれる神だ。エサウの子孫は神を憎み、神を否定する民族になってしまった。異邦人となってしまった。
この異邦人にパウロは伝道し、異邦人が救われた。神を憎み、神に憎まれる民が救われたのだ。この救いがヤコブの子孫の希望となる。
ヤコブの子孫は永遠なる神である主イエス・キリストを十字架に殺し、神を憎む民、神に憎まれる民になってしまった。この憎しみを背負って主イエス・キリストは十字架に死んでくださったのだ。
エサウの罪を背負って十字架に死んで下さった神なるキリストは、ヤコブの罪をも背負って十字架に死んで下さったのだ。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。
「エサウを神は憎んだ」と語られる「憎む」ところに神の断固たるご意志が示される。それは天地創造からの神のご意志が救済史の中に示される。今や、感謝と希望をもって「エサウを愛した神はヤコブを憎んだ」と言えるのだ。
この憎むところに神の十字架の愛が注がれ、神の救いを強烈に受け止めることができる。
わたしたちも神を憎む異邦人であった。しかし、「憎む」ところに働く神の救いを味わい知るものとされたのだ。
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