みことばに聞く

 「 神が味方であったなら 」  石橋秀雄牧師

 


「 もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべての
ために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らない
はずがありましょうか。 」

(ローマの信徒への手紙8章31〜32節)



   
 「神が味方になってくださった」。この一言に尽きる。他に何が必要となるのだろうか。
 どのように味方してくださったのか「御子を惜しまず死に渡された方」なのだ。「死に渡した」と訳されている原文の言葉は非常に激しい。峻烈という言葉で表現できる。峻烈とは「非常に厳しく激しいこと」だ。
 「峻烈な罪の宣告において死刑執行がなされた」ということだ。
 「わたしたちすべてのために、峻烈な罪の宣告がなされ、ただちに死刑が執行された」のだ。人間には到底理解できない。信じられない神の愛が強烈に主イエスの十字架の死に示されている。
 神は「御子を惜しまず死に渡された方」なのだ。「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と語られている神は「すべてのものをくださった」。御子を与えてくださったということは、神は神が持っているものをすべて投げ出して与えてくださった。まさにパウロが語る小福音書だ。
 小福音書と言えばヨハネ福音書3章16節を指すが、神の救いが、福音がこの一言に見事に表現されている。
 これはパウロの感動と喜びだ。神の業へのパウロの驚きだ。驚きが賛美の言葉となって示される。パウロの語る小福音書だ。
 「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」と33節に語られていく。ヨブを訴えたのは天上のサタンだった。サタンによってヨブは苦しみ抜く。しかし、「御子を惜しまず死に渡された方」のお働きで、私たちは神とシッカリ結び付くものとされた。
 「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(34節)
 ここには四つの事が示されている。「キリストの死と復活、神の右と執り成し」だ。
 神が味方であるということがどういうことか示されている。キリストの死、ここに「御子を惜しまずに与える愛」が示される。主イエスの復活によって復活の命がわたしたちに与えられた。復活の主は、今や「神の右に座しておられる」のだ。神の右は全能の神の力を持った方である事を示す。全能の力を持ったお方が「わたしたちの為にいつも執り成してくださっている」のだ。
 「万事が益となる」(28節)との御言葉を学んだ。復活の主は「神の前に万事が益となるように執り成してくださっている」のだ。
 このように「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。
 わたしたちの人生の歩みすべてにおいて、神が味方として働いてくださっている。この事がすべてだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2019年2月号より



画像:「夕焼け白鳥」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。

  


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