みことばに聞く

 「 霊を持つ」  石橋秀雄牧師

 


「 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、 霊は義によって命となっています。 」

(ローマの信徒への手紙8章10節)



 車に乗ってラジオのスイッチを入れた。歌が流れてきて、えっ凄い歌と思った。母の死を前にして父親が子を諭している歌だ。「母は死んでいく、耐えろ、強くなれ、人間いつか死ぬ、母の目に涙、その涙は息子を思う母の涙」と雪村いづみが、すごい迫力で歌っている。特に低音域から高音域を歌っていくところが凄く綺麗だった。澄んだ声で、細く長く「スーッ」と伸びていく。命が消えていくことを表現しているのだと思った。生から死へ誰もがたどる道だ。その流れに誰も逆らうことができない。しかし、その命が消えるところから始まる世界が示される。
 「生から死へ」ではなく「死から生へ」と流れる希望の世界が示される。あの高音域へ美しい声で伸びていく、その部分は西洋の教会の塔を連想した。空を切り裂いて天を指して伸びている教会の塔だ。死から生へと伸びていく線だ。この線は同時に天から私たちの中に差し込んで来る神の命だ。待降節の闇の中に光るローソクの灯は死と罪に闇の世界に神の光が差し込んで来ることを指し示す。
 キリストが霊において肉の中に、罪と死の体の中に入って来て下さる。「霊が宿る」(9節)とパウロは語る。肉、この体を支えるのは欲望だ。食欲を含めて、欲がなくては生きる力は出ない。しかし、欲望は限りない。「コップ一杯の水で済むところを海を飲み込まないと気がすまない」と言われるほどに人間の欲が膨らんでいく。この欲望は神を忘れ、神を拒否し、神に敵対する罪の世界に引きずり込む力だ。
 「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」
 キリストが、罪に死んでいく体に、霊によって聖霊によって宿って下さる。復活の主の命を注ぎ込んでくださるのだ。それは「生から死」の流れの中に「死から生」への流れをもたらす。
 パウロは「霊が宿る。霊を持つ」と語る。
 1節「キリストに結ばれている者は罪に定められることはない」とパウロは語る。「キリストに結びついている者」とは「キリストの霊が宿る者、キリストの霊を持つ者」だ。
 「すると、ペテロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうしたら、賜物としての聖霊を受けます。」
 洗礼によってキリストと共に「罪に死んだ」のだ。そして、キリストと共に復活するものとなった。
 死から生への道、復活の命をもった希望の世界に生きるものとされたのだ。
 待降節にローソクの灯が一本から二本、三本と大きくなって、四本目がクリスマスだ。
 闇の中に光が大きくなって確かな光が指し示される。この光が、確かな命が、復活の命が、聖霊において私たちの体に、この死ぬべき体に宿ってくださるのだ。     

 

 越谷教会月報「みつばさ」2018年12月号より



画像:「燃える雲」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。

  


Top  Back