みことばに聞く

 「新しい命に生き」  石橋秀雄牧師

 


「 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 」

(ローマの信徒への手紙6章4節)



 パウロは福音が誤解されることに我慢ならない。5章では「圧倒的主の恵み」ついて「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(20節)とアダムから罪と死が入り、神の怒りが燃え上がるほどの罪を神の恵みが圧倒して、罪から救い上げてくださった。
 このパウロの言葉をエルサレム教会で、ローマ教会の中のユダヤ主義者キリスト者が攻撃する。「罪が増したところで恵みがあふれるなら罪の中に留まり続けるということか」と福音を誤解してパウロを攻撃する。
 これに対して「決してそうではない。」(2節)とパウロは反駁する。
 福音が誤解されてはならない。福音がゆがめられてはならない。パウロは語る。「罪に死んだ者が、罪の中に留まり続けるなどあり得ない」と語り、洗礼を指し示す。
 パウロは洗礼において第一に起こることは、キリストと共に徹底的に死ぬことだと語る。洗礼とは浸ることだ。十字架の主イエスの死に浸ることだ。「キリストと共に葬られ」(4節)とその死がキリスト共に徹底的な死であることが示される。洗礼を受けるということはキリストの徹底的な死に浸されることだ。
 キリストの死に浸るなら、キリストの復活に浸ることになる。
 徹底的な死から、圧倒的救いの世界に導かれる。
 新築まもない原宿教会で研修会を開いたことがある。フランス人の設計による建築で若者の街、原宿にふさわしい教会だ。何よりも講壇の右横に天井まで届く巨大な十字架があって、この十字架に圧倒される。
 福音の力が良く示されている。
 死の世界に罪の世界に神の創造の業が示される。
 ただただ主イエスの十字架と復活を信じて洗礼を受けて開かれる世界に圧倒される。
 十字架に示される神の愛に圧倒される。
 キリストと一つになって徹底的に死に浸る世界から主の復活の命につながって、復活の主と一つにされて新しい命に生きるものへ変えられる。
 取るに足りないものが、罪の底に沈んでいたものが、主イエスの十字架によって、新しく創造されて、主イエスの復活の命をいただいて、「新しい命に生きる」ものとされたのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2018年9月号より



画像:「雲を通して見る太陽」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。

  


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