みことばに聞く

 「無限に広がる喜び」  石橋秀雄牧師

 


「 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
 … 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 」

(ローマの信徒への手紙5章3節〜4節)



 「それだけでなく」とある。9節には「それで今や」「なおさらのこと」11節では「それだけでなく」と畳みかけるようにパウロは、喜びの世界が無限に広がることを示していく。それは「苦難を誇る」といい得る信仰の世界だ。だれもが苦難は避けたいと思っている。苦難は命を削る。
 この三節をアルトハウスは「いまわたしたちに押し寄せている苦難も誇りに思う」と訳している。
 「押し寄せて来る苦難」、「次々起こる苦難が誇りだ」というのだ。
 次々と押し寄せて来る苦難、私たちは強くない。これほどの苦難に立ち向かうことができるか。この苦難の中で思い知らされる事は私たちの弱さだ。この自分の弱さ、脆さを思い知る者に、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(3節、4節)と語られる。有名な聖書の言葉の一つだ。やはりこの所も口語訳の方の訳が良く知られている。
 忍耐という言葉は重要だ。神が忍耐の神であるところに私たちの希望がある。神の忍耐の中で救われ、そして神との平和の中に生かされている。ここにわたしたちの希望がある。ここでの忍耐は我慢するということではない。わたしたちが忍耐できるのは確かな希望があるからだ。
 練達は広辞苑に「熟練して精通すること、物事になれて奥義に達する事」とある。練達の士と言われる「忍耐して訓練して熟練して奥義に達す」ということではない。練達と訳されている言葉は「テストに合格する」という意味だ。精錬して不純物を取り除くことだ。どのような事でも巧に対処することができる熟練の士の志ではない。本物が光ると言ってもよい。その人を支える力が光るのだ。十字架と復活の主の救いが光るのだ。
 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5節)。聖霊が働いて、私たちの心に神の愛が光るのだ。
 「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二 12章9節)
 キリストの力がわたしたちの内に宿るのだ。「神の栄光にあずかる希望」、すなわち復活の主の栄光、そのものがわたしたちの内に宿るのだ。
 「この希望がわたしたちの内に宿っている」のだ。このキリストの力が、この希望が苦難の中で光るのだ。だから、苦難が誇りとなる。
 「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、…弱いときにこそ強い」(コリント二 12章10節)。苦難の中で喜びの世界が無限に広がる。「弱いときにこそ強い」と断固として主の恵みのなかに立つ喜びが無限に広がる世界をパウロは指し示している。    
 

 越谷教会月報「みつばさ」2018年7月号より



画像:「北海道の麦畑」撮影y.f.

  


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