「 不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。 」
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(ローマの信徒への手紙4章7節〜8節) |
私たちは「幸福になりたい」と誰もが思って生きている。幸福な人生とはどういう人生であるかということを、アブラハム物語を通してパウロは語っている。
アブラハム物語は創世記12章から始まるが、前の章で「サライは不妊の女で、子供が出来なかった。」(11章30節)は、アブラハム物語を理解する上で重要だ。族長アブラハムの妻サラに子どもが生まれないということは致命的だ。跡を継ぐものがいない。希望が断ち切られた夫婦と見ることができる。
希望が断ち切られたアブラハムに、新しい世界、希望に満ちた世界に導く神の言葉が響く。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(12章1節2節)。
希望を失ったアブラハムは「大いなる国民にする」との神の言葉を聞き、故郷を離れて旅に出る。この神の言葉がアブラハムの支えであり希望である。しかし、神の言葉はアブラハムの現実の前に力を失い、空しい言葉となる。サラは年老いていく。子どもの誕生を期待することができない。
「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』」「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15章)
神の示す世界は希望にあふれている。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とある。しかし、アブラハムの現実は変わらない。サラは齢を重ねている。この現実は神の言葉を信じ抜く信仰を吹き飛ばす。サラは女奴隷ハガルを連れて来てアブラハムの側女とし、イシュマエルが誕生する。
アブラハムが九十九歳の時、「サラを祝福し、彼女によって男の子を与える」との神の言葉が響く。アブラハムはひれ伏して笑う。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。」アブラハムの現実は神の言葉をはねつける。この不信の罪の中にイサクが誕生する。その名の意味は「笑う」。希望を失った笑いを失った夫婦が本当に笑う者になった。希望の世界が開かれたのだ。人間の現実、神を否定する現実、罪の現実、ここから神が「外に連れ出し」て下さらなければ、希望の世界、本当の幸福の世界、本当に笑うことが出来る人生は開かれない。
パウロはダビデの詩を引用する「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである」。この「不法が赦され」と訳されている言葉は「運んでいく」という意味がある。罪の世界から赦しの世界に運ばれる。罪が覆われて運ばれる。まさに主イエス・キリストの十字架の救いが示される。
罪の現実から神の希望の世界に連れ出される。神の救いの世界に十字架は私たちを運んでくださる。本当の希望の世界に、本当の幸せな世界に。
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