みことばに聞く

 「わが主よ、わが神よ」  石橋秀雄牧師

 


「 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に
入れなさい。 」

(ヨハネによる福音書20章27節)



 主キリストが復活された夕方、恐れ、怯え、震える弟子たちの真ん中に立って「平和があるように」と弟子たちを祝福し、息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい。」(20章22節)と言って(この時、トマスはいなかった)弟子たちを主の復活の証人として、伝道に遣わされる。
 新しい人間の創造だ。創世記二章六節「鼻に命の息を吹き入れられ」て、人間は生きる者になったと記されている。復活の主は「息を吹きかけられて、聖霊を受けよ」と語られ、新しい人間の創造をされる。
 復活の主のお身体の傷は、生々しい。新しく創造されなくてはならない人間の現実を、その傷は示している。
 八日の後、鍵がかけられた家、トマスもいる弟子たちの真ん中に復活の主は立たれた。
 ヨハネは鍵がかかった家を強調し、復活の主がどなたであるかを指し示す。すなわち、復活の主は新しく人間を創造することがお出来になる天地創造の神なのだ。
 復活の主に出会って、喜びに沸く弟子たちの言葉を聞いても信じなかった。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)と言っていた。このトマスに復活の主は「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27節)と語り、その生々しい傷あとをお見せになる。
 トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と復活の主の前にひれ伏し拝む。その傷は人間の罪の痛みを一身に背負って十字架に命を捧げてくださった神のお姿だ。
 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。・・・生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2章1節、3節)
 主の生々しい傷は、人間の罪が如何に深刻で、神の痛みであったかという事を示している。
 主がその傷を示して下さらなければ、人間の罪の深刻さを理解することが出来ない。
 人間は罪の中に死んでいた。そこから、復活の主の「息が吹きかけられ、聖霊を受けて」新しく創造されなくてはならない存在となった。
 「主の生々しい傷」この傷は神の痛みを示している。罪の中に、神に裁かれて滅ぶ以外にない人間の悲惨を示している。この悲惨な罪を神自らがご自身の痛みとして引き受け十字架に命を捧げてくださった。
 洗礼において、復活の主の息が吹きかけられて、聖霊が与えられて、新しい人間にされ、罪が清められ、復活の命を受けるものに創造してくださった。
 トマスのように心から「わたしの主、わたしの神よ」と主の前にひれ伏し、心からの礼拝を捧げる者でありたい。

 越谷教会月報「みつばさ」2018年4月号より



画像:「桜散る水辺」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。

  


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