みことばに聞く

 「二つの道」  石橋秀雄牧師

 


「 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。 」

(ローマの信徒への手紙2章7節〜8節)



 ここでは二つの道が示される。「善を行う者の道」と「悪を行う者の道」だ。
 「永遠の命の道」か「怒りと憤りの道」か、という二つの道だ。人生はこの二つの道のどちらかを歩む以外にない。
 「来たらんとする、世の終わりの怒り」(パウル・アルトハウス)の前に地獄の苦しみを味わい尽くす道が示される。
 「善い行いをする者は永遠の命」が与えられる。
 「神に反抗し、真理ではなく不義に従う者、私利私欲に走って生きて来た者」の道は悲惨だ。そこに「神の怒りと憤り」が下される。
 この裁きにおいて「神は人を分け隔てなさいません。」(11節)と神の裁きの厳しさが示される。
 「ユダヤ人は神に選ばれ割礼を受け、律法が与えられた聖なる民」という特権意識がパウロによって砕かれる。
 すべて悪を行うものに、神の裁きはユダヤ人にもギリシャ人にも分け隔てなく下されるのだ。
 わたしたちは「その行い」によって裁かれる。その「行いが蓄積」され、そして、それに応じて「裁きも蓄積」されるとのパウロの言葉に打ちのめされる。
 ユダヤ人も、ギリシャ人もその行いが問われたら、神の「怒りと憤り」の前に胸を張って立つことはできない。
 ローマ書の主題は「信仰義認」だ。「信じることによって義とされる」すなわち「救われる」ということだ。
 「行いが報われる。行いによって厳しい裁きを受ける」とここで語られていることと、矛盾する。
 パウロは二つの矛盾する問題を徹底的に語る。
 神の裁きを徹底的に語ることが、神の救いがいかに徹底したものであるかという事を指し示すことになるのだ。
 「信じることによって義とされる」ということは、どこから救われるかという罪の深み、悪の深みを知ることなしには、本当に神の救いの御業を深い驚きと感動をもって受け止めることができない。
 この二つの道が主イエスの十字架と復活で一つとなる。
 徹底した神の裁きと徹底した神の救いが、主イエスの十字架において一つになるのだ。
               
     

 越谷教会月報「みつばさ」2018年3月号より



画像:「ロウバイ」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。

  


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