「 いかなる境遇においても ―満足している― 」  石橋秀雄牧師

 


「 わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。 」

(フィリピの信徒への手紙4章11節~12節)



 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」この詩編の言葉は、旧約聖書の時代から、神を信じるものを支え、力を与え続けた御言葉だ。
 パウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのだ。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。」と語っている。「習い覚えた」とある。そうではなかった時期があった。
 詩編23編で「欠けることがない」と記されているが、欠けるところがあったのだ。
 私たちも欠けがある。とても「どのような境遇にあっても満足している」とパウロのように言うことができない。自分の欠けに苦しみ、生きるということがある。
 パウロもかつては、自分の欠けに苦しんだ時期があった。 
 第二コリント12章7節「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、……サタンから送られた使いです。」と言っている。自分を苦しめるとげ、それはサタンの使いとしか言いようのない酷い痛みをもたらす欠けだ。
 パウロにとってどうにもならないとげだ。
 大きな病にパウロは苦しんでいた。「この事さえなければ」と思うパウロの問題だ。
 しかし、パウロはその欠けたところ、この事さえなければと思う問題の中で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」との確信に導かれる。
 パウロはこのとげが取り去られるように「三度主に願いました。」(8節)とある。3は完全数で何度も何度も願ったということだ。すなわち何度も何度も祈ったということだ。
 この祈りに対して思いもよらない主からの言葉をパウロは聞くことになる。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との主の言葉が響き、そして、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(9節)とパウロの確信が示される。
 欠けたところというのなら、欠けたところどころではない問題がある。罪の問題だ。私たちの罪の中に主は宿られた。十字架によって、わたしたちの罪の中に宿って、罪をゆるして、復活の世界に、聖なる神の世界に導いてくださったのだ。
 十字架の主が、復活の主が、キリストが、この神が自分の欠けたところ、どうにもならないサタンが住んでいるとしか思えない罪の中に宿って、キリストの力をいただくことができるのだ。
 ですから「大いに喜んで自分の弱さを誇る」ことができるのだ。このお方の故に、どんな境遇の中にあっても満足して生きることができる。
 私たちはあらゆる境遇から自由にされて「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない」との確信に導かれて生きることができるのだ。
「キリストが宿ってくださっている」この一点につきる。

 越谷教会月報「みつばさ」2017年9月号より



画像:「虹のかけら」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。