「わたしに倣う者に」  石橋秀雄牧師

 


「 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。……わたしたちの本国は天にあります。 」

(フィリピの信徒への手紙3章17節・20節)



 
 今年は宗教改革500周年の特別な年だ。宗教改革はルターから始まる。
 ルターは修道士だった。しかし、深刻な悩みの中にあった。救いが分からないのだ。
 友だちが雷に打たれて死んだ。神の裁きとして受けとめ、ルターも死に怯える生活をする。ルターは心の病になるほどに苦しみ悩むのだ。
 ルターは塔の体験をして救われる。塔の部分にある部屋でルターは聖書研究をしていた。大学で講義をするためだ。
 ロマ書、ガラテヤ書と研究をしていく。この研究でルターはパウロと向き合うことになるのだ。
 罪の赦しの福音に出会う。罪を知って、救いが分かる。罪を知らなければ救いも分からない。聖書研究でパウロと向き合って、罪を知り、そして罪からの赦しの体験をして救われる。
 聖書の示す救いが分かったのだ。これを伝えなければと説教が中心のプロテスタント教会が誕生する。
 「聖書のみ」、「信じることによって、神の恵みによって救われる」ことに目覚めるのだ。ですから「信仰のみ」との宗教改革の理念が示される。宗教改革の理念は「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」だ。
 パウロはこの罪の赦しの十字架の福音を、命をかけて伝える。
 しかし、フィリピ教会に「十字架に敵対して歩んでいる者」がいる。この事がパウロには悲しくて仕方がない。ですから「涙ながら」(18節)に懸命に語るのだ。
 十字架に敵対し、肉の思い、人の思いが強調され、主イエスの十字架に敵対して行きつくところは、「滅びだ」と、パウロは涙ながらに語り続ける。
 パウロは「わたしに倣う者となりなさい。」と懸命に訴える。
 使徒言行録に、パウロは逮捕されてアグリッパ王の前に引き出されると記されている。鎖につながれている囚人パウロだ。しかし、アグリッパ王に対して「わたしのようになってください」と語る。
 王として力を持ち、この世で欲しいと思うものは全て持っている。しかし、パウロのようにならなければ空しいのだ。パウロは主イエス・キリストにつながっている。キリストをいただいている。キリストの命をいただいて生きている。
 今、鎖につながれて囚人のように裁かれていても、パウロの「本国は天」にある。だから鎖からも、囚人であるこの世の姿からも自由だ。
 主イエス・キリストは天に上げられて神の右に座っておられる。神の右は神の力をもっておられるお方だ。パウロの命は天上の主キリストの中に抱かれ隠されている。
 「本国は天にある」。死を超えた世界は大いなる希望と喜びの世界だ。


 越谷教会月報「みつばさ」2017年6月号より



画像:「カシワバアジサイ」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。