「ひたすら走る」  石橋秀雄牧師

 


「 なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 」

(フィリピの信徒への手紙3章13節~14節)



 第一礼拝の司会者が、「ひたすら走る石橋牧師」と紹介し、わたしが講壇にたった。この言葉を繰り返して説教を始めたら会衆は笑った。間をおかず続けて言ったからだ。説教題は「ひたすら走る」だった。
 わたしは2台自転車を持っている。妻が使っていた電動自転車をもらった。そして普通の自転車だ。教会と幼稚園に行く時は普通の自転車、駅に行く時は電動自転車だ。軽くて速い。
 大阪教区総会問安の日、「ひたすら走った」。駅まで疾走し、自転車置き場に自転車を置いた時には、乗らなくてはならない電車の発車時刻まで1分30秒しかなかった。重い鞄をもって走った。駅の階段を駆け上って行ったが、転んだ。立ち上がって走りだしたが、ホームに登る最後の階段でまた転んで眼鏡を吹き飛ばした。後ろから「大丈夫ですか」の声。「大丈夫です」と答えて電車に飛び乗った。そして、電車の中で、前に前にと行って何事もなかったように座った。電車に乗れたから良いものの、乗れなかったら恥ずかしい姿を人目にさらすことになった。
 「ひたすら走って、転ぶ、力尽きて動けなくなる。失敗して恥をかき、後ろを振り向くと心が痛む」、のような経験をすることがある。
 「なすべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」とある。「後ろのものを忘れ」この言葉に励まされる。
 様々な人生の失敗があり、恥ずかしい転び方をしてしまうことがある。「後ろのものは忘れて良い」というのだ。なんと言っても罪の中に生きていた。それこそ「忘れて良い」という。なぜなら「キリスト・イエスに捕らえられている」(12節)からだ。ひたすら走る時、転ぶことがある。しかし、主に捕らえられている。キリストの手のひらで転ぶのだ。「今転んだことは忘れなさい。さあ、前を向いて、目標を目指して、賞を得ることを目指して、ひたすら走りなさい」と励ましてくださっている。
 この目標、目標に達して、ゴールに到達して与えられる賞。それは「死者の中から復活する」、この人生のゴールが示されている。
 死に向かって生きる人生は希望に満ちている。「転んだこと失敗したこと罪も忘れて良い。わたしが共に走っているのだから、前を向いて、大いなる賞をいただくことを目指して、ひたすら走りましょう」と励ましの言葉が響いている。


 越谷教会月報「みつばさ」2017年5月号より



画像:「お母さんと一緒(白鳥)」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。