「 主を畏れ敬うこと、それが知恵 」
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(ヨブ記28章28節) |
ヨブと友人たちは神の名を用いて知恵をつくして論争した。しかし、彼らの知恵は破たんした。友人であったのに敵対するものとなり、語ればかたるほど神から離れたところでの議論となり、神を見失って行った。
28章では採鉱業者の知恵によって研ぎ澄まされた技術によって、高価な貴金属が採掘されて行く、その高い技術が驚きをもって語られる。辺境の地の奥深くに入り、地中深く掘り進む、その技術は神の創造の神秘の世界まで掘り進むと思える勢いがある。
しかし「それは命あるものの地には見いだされない。」(13節)
知恵は神のもとにあるのだ。人間の知恵は知恵とは言えない。
「すべて命あるものの目にそれは隠されている。」(21節)
旧約聖書の世界では知恵は隠されている。知恵の道を知っておられるのは神以外にはおられない。ですが「神を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」と語られる。
知恵は神のもとにある故に神の言葉を聞き続けて生きること。「主を畏れ敬い、神の言葉を聞いて生きることが人間の知恵」と信じられてきた信仰者が驚きをもってクリスマスの出来事を歌う。
「初めに言があった。…言は神であった。…万物は言によって成った。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネによる福音書1章1節〜4節)
神の内にあった隠されていた知恵が、「人間を照らす光」として私たちの世界に来てくださったのだ。
「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリントの信徒への手紙一 1章30節)
ヨブ記28章の「神の知恵の賛歌」は「主イエス・キリストそのものに示されている知恵の賛歌」となる。
旧約聖書の時代に、隠されていた知恵が明らかになったのだ。主イエスご自身が知恵そのものなのだ。神の知恵、隠された神の知恵による救いが、主イエスの十字架と復活によって明らかにされた。
パウロも知恵に破たんする。アテネで知恵と知識をつくしてアテネの哲学者と論争するが、「十字架と復活」の話になると人々は去って行った。パウロは「自分の知恵では神を知ることができませんでした」と語り、自分の知恵を捨てて、この一点に立ってコリントで語った。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一 1章18節)
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