「神がいますのは高い天の上で、見よ、あのように高い星の群れの頭なのだ。」
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(ヨブ記22章12節) |
「救いとは何か」を考える時、「闇とは何か」ということを知ることが重要だ。ヨブ記22章には底知れぬ闇の深みが記されている。ヨブを包む闇がある。エリファズを包む闇がある。ヨブは、自分を包む闇に怯え、嘆き、苦しんでいる。しかし、エリファズを包む闇についてエリファズは、自覚がない。自分を包む闇の深刻さに気づいていない。エリファズの中に人間を蝕む罪の深み、その闇の深刻さが示されている。本当に救われなくてならないのはヨブではなくエリファズだ。神の存在について語るエリファズの言葉はヨブの確信でもある。
「神がいますのは高い天の上で、見よ、あのように高い星の群れの頭なのだ。」(12節)
ヨブは遥かに高くいます神を求め続けている。エリファズは遥か高き神を応報の思想の枠の中に神を所有する。
ヨブは遥かにいます神の世界の領域に踏み込まない。
悪が世に蔓延り、彼らはこの世界で肥え太り、「全能者になにができる」と神の無力を高笑い、安らかに死に子孫も増えている。この問題を徹底的に追及したら「遥かに高くいます神の領域」に踏み込み、神を否定することになる。ヨブはそこで踏みとどまっている。自分の限界を知り、神にひたすら叫び求め祈り苦闘する。これに対してエリファズは遥か高き神を応報の思想の枠の中に神を所有し、真理は自らの内にありと神が語るようにヨブに語る。「遥か高きにいます神」「この人格の神を否定し」さらに知らぬ間にサタンの価値観の中で語る。
21節「神と和合し平和を保て、ならば収穫は多い」(セルムス)。「神と和解して富を得る」と語る。ヨブの悲劇は「利益もないのに神を敬うでしょうか。」(1章9節)とのサタンの叫びから始まっている。
エリファズは「遥か高きにいます神」を自分の内に所有して、サタンの価値観に取り囲まれて、ヨブを裁く。無垢な信仰者ヨブの信仰を否定し、ヨブを無慈悲な大悪人に、罪人に仕立て上げて糾弾する。この大罪にエリファズは気づかない。彼の神への道は完全に閉ざされ、罪の深みに沈むエリファズを包む闇は深刻だ。
今私たちの世界の深刻さ、この闇の中に生きながら、この闇に気づくことなく自分の正しさを主張して生きているというところにあるのではないか。待降節に示される闇はこのような罪の深刻さだ。神なしに生きる世界を包む罪の深刻さだ。
ヨブは自分を包む底知れぬ闇の深み「何故」と苦悩の中で神に問い続ける。エリファズとヨブ、この二つの闇の深みにクリスマスの光が輝きだす。
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