「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 ……宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
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(コリントの信徒への手紙一 1章18・21節) |
11月6日、越谷教会127回目の創立記念礼拝、永眠者記念礼拝を捧げた。永眠ということばには批判もあるが、大切な言葉だ。終末まで永く眠ることになる。しかし、死んで次に目が覚める時は、救いが完成した神の国だ。死の時、絶望の時、永遠の世界への希望に包まれる。まさに十字架の言葉は救われた者には神の力だ。
パウロは、恐れと、不安の中でコリントに向かう。アテネ伝道でパウロの力が尽きてしまったのだ。アテネは哲学の町、歴史に名を残す数々の哲学者を生んできた。パウロは知恵と知識を用いた哲学者たちと議論した。しかし、死者の復活の話を聞くと、ある者は嘲笑い、ある者はいずれまた聞かせてもらおうと言ってパウロから離れて行ってしまった。十字架の言葉は、アテネの人々には愚かに思えて、幾人かを除いて聞いてもらえなかった。
パウロは力尽きる思いの中でコリントの町に向かう。コリントでは自分の知恵や知識で福音を語ることをしない。哲学を極めても神に出会うことができない。パウロの知恵や知識でも福音の力を語ることができなかった。コリントでは、ただただ「十字架の言葉のみを語る」と決心してコリントに向かう。「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(21節)
宣教という言葉は、宣言するという意味だ。「このような出来事があった」と宣言して語る事が宣教だ。すなわち説だ。十字架の言葉、その内容は本当に愚かなことだ。「独りの人が、人類の罪を背負って十字架で死んだ。それによって全ての人が罪から救われた。」このような事を誰が信じるか、ばかばかしいことだ。
しかし、主イエス・キリストは十字架によって人類最大の危機の中に身を置かれた。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか」と叫んで十字架に死んでくださった。人間の最大の危機は神に見捨てられることだ。この人類最大の危機の中に神の救いの業を見た。
救われた者の歩みは、危機から始まる。危機の中で十字架の言葉が神の力として響くのだ。
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