「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」
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(ヨブ記19章25節) |
19章で示されるヨブは「皮膚が損なわれ、骨がバラバラ、魂もバラバラにされ、愛するものを失い、妻からも子どもたちからも忌み嫌われる姿」だ。悲惨の極みの中で、ヨブの信仰が研ぎ澄まされていく。「神が怒りを燃やして敵になって、天の軍勢」(11節以下)で攻めまくられている。神は不可解で、あり得ないことをなさる神だ。神の怒りが燃え上がるそのところで「贖う方は生きておられる」との確信を持つ。
旧約聖書で「贖う方」は次のように示されている。
夫を失って寡婦となって経済的困難な弱者に親族の中で扶助義務を負うものが「贖う方」だ。「死んだもの」の財産を親族の為に管理する義務を負うものが「贖う方」だ。親族が外部のものに殺害された時、血の復讐をする義務を負うものが「贖う方」だ。ヨブは自分が死んだ後、神がこの贖う方になってくださり、自分の正しさを明らかにしてくださる「贖う方は生きておられる」という確信を持つ。
ヨブの希望は死において「神が贖う方」として働いてくださるということだ。無残な身体を横たえるヨブの上に立ってくださるということだ。
復活信仰はヨブの時代に示されていない。死んで蔭府に下ることは神との関係が一切断ち切られることだ。
キリスト教で古くから旧約聖書のキリストの復活の証言の言葉として重んじられてきた。ラテン語に翻訳され聖書では、次のように訳されている。
「わたしは知る、わが救済者は生きておられ、最後の日にわたしは地から甦り、再びわが皮膚をまとい、わが肉において神を見るであろう。」
神が怒りに燃えて、天の軍勢をもってヨブを攻めまくる。この神は不可解だ。ありえないことをなさる神だ。「主は生きておられる。贖うお方として。このお方を皮膚が損なわれても、仰ぎ見ることができる」驚くべき信仰の確信が示される。死において働く神への確信だ。
このヨブの信仰は主イエス・キリストの十字架の証言と教会の歴史の中で受け止められてきた。
神は主イエス・キリストにおいて、塵の中に降りてきてくださった。
罪に引き裂かれて神の前に滅んでいく者の上に立たれた。そして、その底知れぬ罪の深みから救い上げてくださり十字架と復活の主を仰ぎ見る者にされた。
「贖う方は生きておられる」。
絶望の深みで、わたしたちも、この確信に導かれる。
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