「人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから、交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。」
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(ヨブ記14章14節) |
旧約・新約聖書共に死を「眠る」と表現する。
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(マルコによる福音書5章39節)
眠るということは覚める可能性を示すものだ。旧約の世界に復活信仰はまだ示されていない。しかし、ヨブは「天の続くかぎりは、その眠りから覚めることがない。」(12節)と語る。人間の力で眠りから覚める可能性はない。希望は神の御手にある。
旧約聖書で示される神は「怒り、裁く」神だ。ヨブの苦悩は「神の怒りの中で裁かれている」ことであり、その事によって神が分らなくなっている事だ。
苦悩の中でヨブは「理由なしに滅ぼされる神」に苦しめられている。この神の御手にあって「苦役のような人生」だと自分の人生を語る。
この人生から「交替の時」、「大転換の時」をヨブは待ち望む。
「わたしを陰府(よみ)に隠してください。あなたの怒りがやむ時まで、・・・・・時を定めてください。わたしを思い起こす時を。」(13節)
陰府、そこは神との関係が完全に断ち切られた所だ。しかし、ヨブは陰府を待ち望む。「神の怒りが静まり、罪が封じ込まれて」、神に思い起こされ、神に名が呼ばれる時、救いの時を待ち望んでいる。
その時は「交替の時、大転換の時」だ。
「神の怒りと裁きの時」から「神の赦しの愛の恵の中に招かれる大転換の時」だ。
大転換をもたらす御手の業だ。
「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」(ホセア書11章9節)
怒りの中で、裁きの中で愛が燃え上がる。怒りと裁きの中に神の愛、赦しと解放の神が強烈に示される時だ。
ヨブは「主イエスの証人」だと言われる。
主の十字架が指し示されている。
十字架において神の怒りと裁きの只中で赦しの愛が燃え上がる。この「大転換の時」がヨブによって指し示されている。
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