「その時にこそ」  石橋秀雄牧師

 


「その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく恐怖を抱くこともないだろう」

(ヨブ記11章15節)



 今がどういう時の中にあるか、「時」を知るということは非常に重要なことだ。「その時こそ」と示されるこの時をヨブは「必死に求めて痛み苦しんでいる」。ツォファルは「今の時を知っている」と自信満々だが、「時を知らない」。共に、ヨブもツォファルも「その時」が示されなければ救われない者たちだ。
 ツォファルは「この時」を神がヨブの罪を裁いている時と見る。伝統的応報の思想(正しいものは報われ、悪人は裁かれる)によってヨブの罪を断定して神がヨブを裁いておられる時と認識している。「神が隠しておられる知恵が示されたら、あなたの罪の一部を見逃して下さったとあなたにも分るだろう」とツォファルは語る。ツォファルにとってはヨブの罪を裁かれない神は不可解だ。神は知恵を隠しておられる。ヨブの罪の一部を見逃しておられると語る。
 今の時は神が罪の一部を見逃しておられる「忍耐の時」であることが、時を知らないツォファルの言葉から示される。ツォファルが本当に知らなければならない時は、今、神は罪を見逃し、忍耐され、その時の到来、完全な救いの到来の時が待たれているという事だ。
 ツォファルにとってヨブは尊敬する友人で、信仰的にも人間的にもヨブほど優れている人間はいないと思っていた。
 とすれば神の不可解さを見つめヨブと共に「何故ですか」と共に問い、共に祈ることが求められていた。しかし、そのヨブの信仰者の苦悩を共に苦しむ事をしない。
 ツォファルは応報の思想という枠の中に神を閉じ込め、全能の神を信じる信仰を表明しながら、この神を否定する。
 「方向転回をし、懺悔して祈り、神に立ち帰れ」と語るツォファルこそが、自らの言葉に従うべき存在だ。まさに「懺悔して祈り、神に立ち帰る」ことが求められる。
 「その時こそ」「晴れ晴れと顔を上げて動ずることなく、闇から解放されて、真昼よりも明るい光の中で、希望があって安心していられる」と「その時」の救いの喜びが示される。
 主イエスは「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と福音宣教を始められる。
 「その時」は罪の闇、死の闇から明るい主イエスの復活の光の中に導かれ救われる。「その時」が主イエスの到来によってもたらされたのだ。

 越谷教会月報「みつばさ」2016年6月号より



画像:「黒法師」は、朝焼け・夕焼け写真日記からお借りしました。