「この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
……あなたはわたしを汚物の中に沈め、着ているものさえわたしにはいとわしい。」
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(ヨブ記9章24・31節) |
マタイによる福音書5章45節「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」この主イエスの言葉とは全く反対に暗い世界、闇の世界の真理が語られる。
「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」(22節)
神は疫病、飢餓、災害は無差別にその惨劇の中に、善人も悪人も子どもたちまで引きずり込み滅ぼし去ってしまう。
「罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。」(23節)、信仰者はその惨劇に動転し、神がその惨劇を嘲笑っていると思えるほどに信仰が混乱する。今のヨブの姿だ。世を支配しているのは何であるか、この惨劇の中で、信仰者には、神が世を神に逆らう者の手に委ねられたとしか思えない。闇が世界を支配しているように思える。
正しく裁く神、裁判官はいない。「奪う神」しかいない。「ちがうというなら、誰がそうしたのか。」(24節)とヨブは激しい苦悩の中で神に叫ぶ。
神に至る道は閉ざされている。「雪解け水でからだを洗い、灰汁で手を清めても、あなたはわたしを汚物の中に沈め、着ているものさえわたしにはいとわしい。」(30・31節)。このヨブを誰が救うことができるのか。今ヨブが求めるのは仲裁者だ。ヨブから、人間から神への道は閉ざされている。「仲裁者」が入ってくれたら、正しい裁きがなされ「正当に扱われていない」ことがあきらかになるとヨブは期待する。
神の義を問うたら、「神は奪う神」としか受け止められなくなった。神の義を問い続けたら、この世は闇の支配、神に逆らう力が働いているとしか思えない世界に見えた。「善人も悪人も子どもも」一緒に滅びる汚れた世であり、ヨブ自身も汚物に身を沈める存在になった。そして、仲裁者がいたら「わたしは正当に扱われていない」と胸をはる事が出来るとヨブは言う。神との距離は広がる一方だ。神の側から働きかけてくださらなければ、救いの道は決して開かれることはない。ヨブは「仲裁者」を求めた。すなわち仲裁者とは仲保者主イエスが指し示される。ヨブを汚物の底から救い出すことができるのは、闇が支配する世界から救うことがおできになるのは、三位一体の子なる神主イエスが、仲保者として働いてくださるからだ。ヨブの惨劇は、主イエスを指し示している。
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