「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
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(マルコによる福音書16章8節) |
キリスト教の歴史は恐怖から始まる。聖書もこの8節から読むことが求められる。
マルコによる福音書は16章8節で終わっている。非常に中途半端だ。9節の前に結び一とあり、さらに結び二が記されているが後の時代に付け加えられたものだ。
この8節から始まる世界がある。それはキリスト教の世界だ。教会の歴史だ。
墓の中で神の業を知った。この神の業を知った時、喜びよりも、恐怖におののく婦人たちが示される。婦人たちは「震え上がり、正気を失った。誰にも何も言えなかった。恐ろしかったから」だとある。
この恐怖はやがて驚きに変わり神への賛美に変わる。この驚きを伝えるためにマルコはマルコによる福音書を書くのだ。
16章8節から1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」を読むことが求められる。
マルコが主イエス・キリストの福音を語るのは、福音を聞いた、墓の中で福音を見た、神の業を見たその驚きを書くのだ。墓で神の業を知った時、婦人たちは「恐怖におののく」、神が働かれたのを見た時、恐怖に震えあがる。この驚きをマルコは記していく。
教会の歴史も恐怖から始まる。
それは「聞いても信じなかった」からだ。神の大いなる御業を聞いても信じなかった弟子たちに主イエスは繰り返し、繰り返し教えられていた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥されて殺され、三日目の後に復活する」と。主イエスの死は弟子たちの信じる心を吹き飛ばす。主イエスを愛する婦人たちは墓に向う。高価な香油を墓に納められた主のお体に塗る為だ。主イエスに救われ、主の力ある言葉に感動し、主を愛し従う婦人たちも、信仰が吹き飛んでしまった。主イエスは死んで墓に納められてしまったのだ。
「聞いても信じない」「神の言葉を聞いても信じない」この罪が主イエスの復活の出来事で「暴露」されて恐怖におののく。
この8節から始まる世界、それは聞いても信じない世界が変えられていく歴史だ。主イエスは死を打ち破って「恐怖におののく弟子たち」に「罪を赦す主」としてご自身を現す。墓は空だった。死は人間を不信仰の底に、絶望の底に打ちのめす力ではなくなった。主は「聞いても信じない」人々に出会いつづけてくださっている。
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