「まして人は塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。」
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(ヨブ記4章19節) |
3月5日、東京教区伝道講演会で私が主題講演を、そして前教団議長山北宣久先生が特別講演をした。
山北先生は本当に面白い講演で爆笑させながら「伝道こそ命」というテーマで講演をされたが、その中で「だから」か「でも」なのかとお話された。「あの人は正直。だから大切」「あの人は性格が暗い。でも大切」。人を生かす言葉は「だから」なのか「でも」なのかということだ。「だから」には理由がある。「でも」には理由がない。
ヨブは自分の生まれた日を呪った。ヨブの生まれた日、「その日は闇になれ」と三章で語った。「命は誰のものか」と問われ、私達の社会では「自分のもの」と考える人が多い。しかし創世記が示す「命」は神のものだ。従ってヨブが自分の生まれた日を呪うということは神の創造の業を否定することになる。
ヨブの友人エリファズはこのヨブの言葉に黙っていない。ヨブの内に罪がある「だから」今、神に裁かれ激しい苦痛の中にある。ヨブの苦難には理由があるのだと語る。さらに神の前における人間の姿を語る。
「まして人は塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。」
「主なる神は、土すなわちアダマの塵から人すなわちアダムを形づくり、その鼻に命を吹き入れられた。それで人は生きる者となった」と創世記の神の創造の業を示しながらエリファズは神の前に人間がいかに小さく無価値な存在であるかを語る。「しみは食い荒らす」とは難解な表現だ。しみは虫のことだ。小さな虫に衣が食い荒らされるように、この小さな力で全てが奪われ、あっけなく滅びて行く存在であることを指摘する。このような人間、ヨブに救いの道が開かれるのか。
このようなヨブと人間にキリストの福音の光が照らされる。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネによる福音書1章14節)三位一体の子なる神が、塵にしかすぎないこの無価値な人間の中に宿られたのだ。
キリストの福音によって示される神は理由なしに愛される神だ。「理由なしに滅ぼす神」を見つめて苦しむヨブの救いは理由なしに愛する神の再発見にある。「でも」救う神が人間の救いである。
「人間は価値がある。だから愛する神」ではない。
「塵から生まれた無価値な人間でも愛してくださる神」「罪深いものでも愛し救う神」が十字架の罪の赦しの福音で示される。
傲慢な者でも神はその傲慢さを問い、十字架で打ち砕いて救ってくださる神だ。
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