「主が宿った。神の栄光を見た」  石橋秀雄牧師

 


「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

(ヨハネによる福音書1章14節)



 羊飼いたちに神の言が響いた。
 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
 羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」とベツレヘムに行く。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とルカによる福音書はクリスマスの出来事を記す。
 彼らは「粗末な布にくるまれた乳飲み子を見た」のだ。見た現実は、そこには神の輝きも何もない。天使たちもそこにはいない。しかし、神が働いていると思えないところに神の業を見たのだ。「粗末な布にくるまれた乳飲み子」、羊飼いたちは、「貧しくなられた独り子なる神」を見た。まさに「貧しさと、蔑みの中に生きる自分たちのうちに宿ってくださった救い主を見、そこに神のご栄光を見る」。そして、喜びにあふれて主を賛美する羊飼いたちが示されている。
 主イエスの十字架の死に神の栄光を見ることは出来ない。しかし、この神の栄光が見られないところに神の栄光を見る。
 トマスは復活の主から「手とわき腹の生々しい傷痕」を見せられる。その傷は十字架で磔にされた時の傷だ。
 「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)
 「罪人の中に同じ罪人となって宿った独り子なる神」が示される。
 その生々しい傷は、神の痛みを示している。その罪の痛みを背負って死んでくださった神の痛みを示す傷だ。
 トマスは、その生々しい傷を見て、そこに「神のご栄光を見」そして「わたしの主よ、わたしの神よ」と驚き、ひれ伏し拝む。
 主は羊飼いの貧しさの中に、蔑まれる痛みの中に宿られた。羊飼いたちはそこに神が働いているのを知り、神の栄光をそこに見て、主を褒め称える。
 主は「罪人になって罪人の中に宿ってくださった」。そこに「神の栄光を見て」神を褒め称える。
 そして、「わたしたちの肉の中に宿ってくださる神」その神は「私たちの弱さの中に、脆さの中に」宿ってくださる神だ。
 わたしたちの内に神の働きを見ることができる。すなわち「神の栄光を見る」事が出来る新しい年の歩みを始めた。
 自分の歩みの中に宿る神の業を知り、「神の栄光を見た」と高らかに主を褒め称える新しい年の歩みをなしていきたい。

 越谷教会月報「みつばさ」2016年1月号より



画像:「白鳥−飛行機と一緒」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。