「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
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(コリントの信徒への手紙一 15章44節) |
使徒信条で「身体のよみがえりを信ず」と告白されている。「身体のよみがえりを信ず」と告白する事は「簡単」なことではない。
葬儀の時、死の身体が横たえられている。愛するものと死の身体を見つめながら、寂しさと悲しさの中で葬儀をする。「この身体のよみがえりを信ず」と告白しながら死の身体を見つめる人がいるだろうか。命がない、心もない、魂もない。そして火葬される。ただのものになってしまった。
この朽ちていく身体を見つめながら、霊の身体について語る。
命と身体、この命と身体は神から創造されたものだ。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)
神の創造の御業の中で身体が与えられる。だから身体は良いものだ。しかし、身体は衰えて行く。限界があり死んで行く存在だ。
魂と体。この二つを持って人間は生きることができる。そして、しばしば、身体は朽ち果てても、魂は永遠という考えがある。聖書にはこの二元論は語られない。魂も体とともに死んで朽ち果てる。この朽ち果ててしまう体を見つめさせながら、霊の体についてパウロは語る。
「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
「種は死んで全く新しい姿に甦る」と復活が指し示される。種が死ぬとは言えない。種には根を出し、芽を出す力が詰まっている。しかし、種からは想像も出来ない姿に変わる。これを例にして復活の世界が語られる。
すなわち「命の体」に蒔かれて「霊の体に復活する」と大いなる希望が示される。「霊の体に復活」するのだ。
「言葉は、キリストは、肉となって、私たちの間に宿られた」とヨハネはクリスマスの出来事を語る。
聖霊なる神がわたし達の間に宿られる。体は弱り、衰えていく。しかし、この弱さの中に宿ってくださり、生かされる。わたしたちの、この体に聖霊なる神が宿ってくださる。そして、衰えていく体、死の体を指し示しながら、「霊の体に復活する」と大いなる希望の世界が示される。
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