「新しい墓に」  石橋秀雄牧師

 


「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」

(マタイによる福音書27章60節〜61節)



 主イエスは十字架につけられ死んで葬られた。すなわち三位一体の子なる神が、死んで葬られたのだ。神が死んで葬られたと聞くと、引いてしまう。そんなことあり得ないとどこかで思ってしまう。
 マタイが記す主イエスの死と葬りの記事は考えさせられる。
 死んで葬られたら、もうお終いだ。そこに何の希望もない。マタイが記す主イエスの死と葬りの記事は、期待が込められている。この期待は主イエスが死んで葬られるところから開かれる世界、希望の世界だ。
 主イエスの納められた墓の前には溝が掘られていて、この溝に大きな石が上から下へと転がされて墓の入り口が塞がれている。とても女性の力では開ける事が出来ない。この墓で何かが起こるなどとは誰も想像することはできない。何かを期待したり、希望を持つことなど出来るはずがない。
 しかし、マタイは主イエスの死と葬りを記す記事の中で、次に起こる事を待つ、希望をもって待つことを示している。
 マタイは主イエスの遺体を「新しい墓の中に納めた」と記している。「新しい墓」だ。墓が新しくなる。墓が全く新しい墓になると記すところに、待つ、墓に何かが起こる、希望の世界が墓から開かれるということを示している。この希望についてマタイは「新しい墓」に葬られてと記すことによって語っているのだ。それゆえ、この墓を一心に見つめる二人のマリアの姿をマタイは記している。
 マグダラのマリアともう一人のマリアは「墓のほうを向いて座っていた」とある。
 「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(61節)
 マタイはマグダラのマリアともう一人のマリアの嘆き悲しみ苦しむ姿を記さない。
 二人のマリアは墓の方を向いて座っている。非常に簡潔に二人のマリアの姿を記している。ここにマタイのメッセージが記されている。
 二人のマリアは、沈黙して、静かに墓を見続けるのだ。死んで墓の中に身を横たえられる主イエスの死のお体を見つめ続けている。
 主イエスの死の姿を見つめる。それは絶望ではなく、そこから始まる新しい世界を待つ二人のマリアの姿がここに記されているのだ。
 墓に納められたらお終いだ。諦める以外にない。しかし、この墓が新しい墓となるのだ。大いなる神の業が墓に示され、墓から復活の希望の世界が開かれるのだ。 

 越谷教会月報「みつばさ」2015年9月号より



画像:「虹のかけら」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。