「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」
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(ヘブライ人への手紙2章13節) |
「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(11節)と記されている。
わたしたちは「主の兄弟」として、神の右にいます、神とひとつである主と同じ存在として神の世界に招き入れられている。
主が「兄弟と呼ぶことを恥としない」とは驚くべき神の業が示されている。
主は「完全なお方、聖なるお方」(10節11節)である。この主と同じ「完全なもの」「聖なるもの」とされたというのだ。
あり得ない事だ。「自分の不完全さ」を思い知らされる。自分の弱さに、脆さに苦しんできている者が完全の者であるはずがない。
あいかわらず「罪」のなかに、もがき苦しんで生きる自分を見つめざるを得ない。
聖なるお方に従いきれない。聖なるお方の前に罪を犯して生きる自分を思わずにおれない。
この完全なるお方、聖なるお方から真逆の中に生きる。このお方からはるか遠い存在であるわたしたちに「兄弟と呼ぶことを恥としない」という御言葉が響いている。
「わたしたちを罪の闇に沈め、死をつかさどる悪魔を、死を滅ぶすために、死の奴隷から解放するために聖なるお方が、同じ血と肉を備えてくださった。人間になってくださった」とヘブライ書14節以下に記されている。
わたしたちを「兄弟」とするために「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」(17節)
主はわたしたちと同じになってくださった。この罪の中に沈む、死の恐怖(15節)の中で死の奴隷から解放する為に、主はわたしたちと同じ人間となり、この人間の罪をこの死の支配、罪の支配、悪魔の支配から贖い出すために十字架に命を捧げてくださった。
この主イエスの犠牲によって罪から死から悪魔の支配する闇から贖いだされて、今は主の赦しの愛の中に包まれている。
「『わたしは神に信頼します』と言い、更にまた、『ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』と言われます。」(13節)
主を信じる信仰によって、神が完全なる者、聖なる者と見てくださり、主は「ここに神が与えてくださった子らがいます」とわたしたちを指しながら、主の兄弟として神の子として神の栄光の中に招き入れられているのだ。
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