「まさしくわたしだ」  石橋秀雄牧師

 


「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

(ルカによる福音書24章39節)



 主が墓から甦られたと墓に行ったマグダラのマリア達の話を聞いて、使徒たちは「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と11節で記される。使徒たちは主イエスが復活された、生きておられると聞いても、信じることができない。
 実際に復活のイエスが弟子達の真ん中に立たれると、弟子達は亡霊だと思って恐れおののいている。復活の主の前で復活の主を疑い恐れおののいている。
 弟子たちは復活の主イエスの前でうろたえ、疑う。考えれば考えるほど疑う思いは膨らんでいく。主イエスの前で、神の前で、主イエスの救いの業が示されながら、疑ってしまう。
 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」
 主の手と足は十字架で処刑された時、釘で打ちつけられていた。今、弟子達の前に立つ主は、その傷がすっかり綺麗になった霊的存在ではない。生々しい、傷跡がある主イエスのお体が示される。
 亡霊には肉も骨もない。しかし、今弟子たちの前に立つ主イエスは肉があり骨があり、触れることができる。
 「まさしくわたしだ」と弟子達に復活のお体を示される。しかし、弟子達はそれでも復活の主イエスを信じることができない。
 「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、」(41節)。何か食べ物はあるかと問い、差し出された焼いた魚の一切れを食べられた。
 弟子達を思う主の深い愛の業が示される。
 「焼いた魚を食べられた」というこの行為が愛の行為だ。どうしても信じられない弟子たちを復活の主イエスの愛の中に招き入れる。
 主イエスは焼いた魚を食べられた。肉体をもって甦られたことを弟子達に示された。この事実の前に弟子達の疑う心は吹き飛ぶ。もはや疑う者はいない。断固たる確信の中で「あの方は甦りました。わたしたちはその復活の証人です」と、どのような迫害の中でも、命が奪われることがあっても復活の証人として弟子達は語り続けていった。

 越谷教会月報「みつばさ」2015年5月号より



画像:「ニュートンのりんごの木の花」は 朝焼け・夕焼け写真日記 からお借りしました。