「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。』」
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(ルカによる福音書24章5節) |
三福音書の墓を見つめる婦人達の記事は、嘆き悲しむ婦人達の姿ではなく、静かに墓を見つめる婦人達の姿を記す。その婦人達の泣き叫ぶ姿は三福音書ともに記されていない。
墓を見つめる婦人達の名前がそれぞれの福音書で違っている。しかし、どの福音書でもマグダラのマリアは出て来る。マグダラのマリアは七つの悪霊に取り付かれて苦しむ女性だ。この悪霊から主イエスによって救われた。自分を苦しめる問題から主の力によって解放されたのだ。彼女は、女弟子の一人として主イエスを信じて主に従って来た。マグダラのマリアの人生の支えであった主が、十字架に殺され墓に納められた。
「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(マタイによる福音書27章61節)
どの三福音書ともに泣き叫ぶ婦人達ではなく静かに墓を見つめる婦人達の姿を簡潔に記している。
墓には主イエスの死のお体が横たえられている。誰も愛する者の死を、その墓を直視することができない。
しかし、福音書記者は静かに墓を見つめる婦人たちを記している。
ここに福音書記者の大きなメッセージが示されている。
墓を見つめなさい、絶望を直視しなさい、その深みに主イエスの死のお体が横たわっている。主イエスの死をシッカリと見つめなさいというメッセージだ。主の死を見つめるというメッセージが示されているところから始まる世界があるのだ。墓、絶望、愛するものの死、この墓を、絶望を、死を直視することができない。しかし、そこからはじまる世界があることを復活の朝、婦人達は知ることとなる。
「墓は空であった」主の遺体が見付からず途方にくれる婦人達に神の言葉が響きわたる。
「なぜ生きておられる方を墓の中に捜すのか」。
さらに「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(7節)
主イエスが殺されて墓に納められたという現実を前に主イエスの言葉はスッカリ忘れ去られてしまう。しかし、主イエスの言葉を忘れさせる絶望、墓、その中で主イエスの御言葉を神の御言葉を思い起させる。墓で、この絶望の中で神の言葉が真実であったことを知ることになる。「復活されて生きておられる」この力の言葉が墓の中で、絶望のただ中で響きわたる。主の死を、墓を、絶望を直視するところから思いがけない神の力をいただく世界が開かれる。
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