「『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた。……ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」
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(ルカによる福音書23章21・23節) |
「その声はますます強くなった」(23節)とあるが、口語訳聖書では「その声が勝った」と訳している。主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ声が勝ったと示される。罪の叫びが勝ったのだ。イスラエルにおいて十字架にかけて処刑することはありえない。なぜならば「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(申命記21章23節)とあるからだ。当時、木にかけられて処刑されることはなかった。死刑にあたる罪を犯したものは石打ちで処刑された。ステファノも石で打ち殺されて殉教した。
木にかけられて処刑される者は神に呪われたものだ。主イエス、神の子メシアに対して「十字架につけろ」と大声で叫ぶ者たちの声が、罪の叫びが勝ったのだ。
罪の叫びが勝つ社会、そのような社会で苦しむ人々の悲痛な叫びが響く社会に生きなければならない事がある。
また、わたしたち自身においても罪が勝つ生活をし、罪の中に沈んでいくことがある。
罪の叫びが勝つ、神に勝つ、主イエスを裁く裁判の場で示される。
主イエスは「わたしたちのために呪いとなって、呪いから贖い出してくださった」とパウロはガラテヤ書3章で語っている。呪いとなるとは罪によって神の救いの外に投げすてられることだ。「十字架につけろ、十字架につけろ」と大声で叫ぶ民衆、この声が勝つ、罪の叫びが勝つ、この痛みを一身に背負って、呪いとなって主イエスは死の道を進まれる。
罪の叫びが神の前に勝利する現実の中に神が否定される場で、神よりも罪の力が強いと思えるところで、神の愛が燃え上がる。罪が勝ち、神の前に呪いとなって、神の祝福の外に投げ捨てられて滅びるということはあってはならないのだ。主イエスが裁かれ、「十字架につけろ」との大声が響きわたる中で、その罪を、呪いを一身に背負って十字架の死へと向かわれる主イエス。「何が何でもこの罪から救い上げる」との主の愛が罪の叫びの中で燃え上がる。
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