「不幸だ」  石橋秀雄牧師

 


「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」

(ルカによる福音書22章22節)


 イスカリオテのユダが何故主イエスを裏切ったのか、その理由は分らない。ルカ福音書とヨハネ福音書のみが「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(3節)と記す。主イエスを裏切るということは「サタンが入った」としか説明ができないことだ。
 主イエスが十字架の死を迎える時、主は過越の食事を弟子たちとすることを切望されている。重要な意味を持つ過越の食事だ。この過越の食事を記す時、ルカは弟子たちを「使徒」と呼んでいる。使徒として弟子たちは重要な使命を担う者とされる。
 その使命を担う者となる為に、弟子たちに主イエスの十字架の死の意味を示される。十字架で肉を裂き、血を流されるその意味が明らかにされる。
 聖餐式の起原を示す重要な過越の食事である。
 主が十字架で肉を裂き、血を流すことは、人を罪から解放するためであることが、示されていく。
 この重要な食事の席からイスカリオテのユダは排除されていない。
「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」(22節)
 主イエスは十字架の死の道を歩まれる。解放者として、私たちの罪を背負って十字架に命を捧げられる主を裏切る者は「不幸だ」と主は語られる。主イエスはイスカリオテのユダの罪を指摘される。
 主イエスは悲しみの中で語られるが、怒って「裏切り者ここから出て行け」とは仰らない。本当に不幸なユダへの熱い愛の眼差しをもって、その裏切りの罪を指摘される。
 不幸なのはユダだけではない。他の弟子たちも主イエスを裏切るのだ。本当に不幸な者たちに、救い上げると「パンとぶどう酒」を渡される。主イエスは罪に沈む本当の不幸から解放してくださった。この主が、繰り返し、聖餐式において、「あなたを解放する、あなたを苦しめている不幸から解放する」と熱い眼差しをもって、聖餐式でパンとぶどう酒を与えて下さり、罪ゆるされた確信の中で、復活の主の命に与る幸いを味わう者とされている。

 越谷教会月報「みつばさ」2014年12月号より



画像:クリスマスイルミネーションは 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。