「すべてを捧げる」  石橋秀雄牧師

 


「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

(ルカによる福音書21章4節)

 エルサレムの神殿の賽銭箱に金持ちたちが多額の献金を捧げている。多くの人々が金持ちの献金に注目している中で、貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を献金した。もっとも低い額の銅貨を捧げた貧しいやもめに主は熱いまなざしを向けられる。
 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」(3節)と「確かに言っておく」と強調されておられる。
 主イエスはこの貧しいやもめの献金とご自身のメシアとしての業を指し示して語られる。
 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(4節)
 生活費と訳されている言葉は「いのち」とも訳すことが出来る。すなわち「いのち」を、すべてを捧げたのだ。レプトン銅貨二枚は、パン二個を買うことが出来る額とも言われる。すなわち明日食べるパンとも取れる。明日も、自分の未来も全て神に捧げたのだ。
 十字架の死を前に、この貧しいやもめを指し示された意味は大きい。
 今、主イエスの周りには弟子たちを含めて多くの人々が従っている。
 主イエスをメシアと信じて、エルサレムに向かう主に多くの群集が従っている。エルサレムでメシアとして大きなお働きをしてくれるに違いないと信じて従っている。
 しかし、やがて主は独りで十字架の道を歩んでいかれる。弟子たちは主イエスを裏切り、今主イエスに従っている人々も、やがて主イエスに失望し、「イエスを十字架につけよ」と叫ぶ群衆になっていく。
 主が孤独な歩みをされる中で一人の貧しいやもめが指し示される。
 まさに主イエスはこの貧しいやもめとなって、十字架の道を進まれる。
神の身分(フィリピ2章)であるお方が貧しくなった、僕となって、その命を、すべてを十字架に捧げられる。この十字架が神の業であるとは人間には想像できない業であった。
 まさにここに神の業がある。
 キリストは神の身分を持っておられた。神の身分であるお方が僕になられたのだ。そして最も貧しく、もっとも弱いやもめのようになって十字架の道を進まれる。
 私たちが信じる神がどのような神であるか、最も貧しい者になり、私たちの貧しさを担い、醜さを担い、罪を担い、命を捧げて、全てを捧げて救い上げてくださった。
 この神の大きな愛の業の中に救われて生かされている。高らかにこの主の大いなる業を賛美する者として歩んでいきたい。

 越谷教会月報「みつばさ」2014年9月号より



画像:白鷺とトンボは 「朝焼け・夕焼け写真日記」からお借りしました。